| 東奥日報エッセイ97'〜00' |
1. 一歩踏み出す季節です
このままでいいのか、いけないのか、とハムレットは悩んだ。それは、つまり、このままではいけないのである。
二月、三月、四月と、私のまわりにこのままではいけないと思う人が増殖し始めた。会社を辞めて、イタリアに短期留学するT子さんは、三十一歳の既婚者。「うちの夫、一人暮らし長かったし、私より料理得意だからぜんぜん心配ないのに、みんなに、だんなさんどうするのって聞かれるの。変でしょ」「うん、変だ変だ」と相づちを打つのは私くらいで、世間は三カ月程度の留学でも、夫を置いて行ってしまう妻にまゆをしかめるらしい。どうせなら、もっと長く行ってくればいいのに、ねえ。
一年間ソウルの大学に通うことになったK子さんは、十年勤めた会社を辞めて大学受験。合格。向上心はとどまる所を知らず、今回の留学と相成った。最初は休日にお見合などさせようとしていたこ両親も、ソウル行きに至っては勝手にしろ状態だったとか。
九月出産予定のC子さんの話。なかなか妊娠しないので、半ばあきらめて再就職した途端、おめでた発覚。もともとは専業主婦志望だったのに、「まあ、やれるトコまで両方やってみるわ、辛くなってから辞めても遅くないもんね」と、ニッコリ。なんとも強い日本の母になってしまった。
ほかにも、会社を辞めてアルバイト生活に入る人やら、逆に派遣社員を辞めて別の会社の正社員になる人やら、なんだか生活を変えようとしている三十代の女性がやたら多いのである。彼女たちに共通しているのは、飄々(ひょうひょう)と新しい一歩を踏み出していること。こうやって文字で書くと、ものすごくパワフルで怖そうな女性たちだと思われるかもしれないが、強い意志はかけらも見せない。ただ、適齢期、主婦らしさ、ノルマ、出世…世間や会社が求める、こう有らねばならぬという枠組みをボーンと超越しているのだ。
二十代のころは、もっと生き方に肩パッドが入っていたよなあ、彼女たちも、私も。いつのまにか、本当に欲しいものを手に入れるために、欲しくないものは捨てられるようになったのかもしれない。
ひとつだけ、困ったことがある。彼女たちから刺激を受けると、自分が停滞しているような気になるのだ。変化だけが素晴らしいのではなく、継続もまたパワーだと理解はしているのだが…このままでいいのか、いけないのか。
1997.4.17
2. フツーに芸術するということ
先日、富山県東砺波郡の利賀村に行った。恒例の演劇フェスティバルに参加するためである。
今回は私の所属する青年団、花組芝居、ク・ナウカ、山の手事情社など東京の四劇団、山田せつ子さんのダンス、そして利賀村に本拠地を置くSCOTというなかなか強烈なラインナップだ。
申し訳ないが、利賀村は遠い。東京を起点にしてではあるが、ものすごく遠い。池袋から深夜バスに揺られること七時間弱。富山駅でJR高山線に乗り込んで、風の盆恋歌で有名な越中八尾駅へ。この在来線は、約二十分。しかし、ここでホッとしてはいけない。一日二往復の村営バスをひたすら待ち、山道を一時間ほど登って登って登っていくと、やっと会場にたどり着けるのである。すごい。さすが富山、本当に山が豊富だ。携帯電話がつながらないと聞いてはいたが、すばらしく広くて青い空の下、液晶に表示される圏外という二文字は感動的ですらある。
演出家の鈴木忠志氏が、劇団の本拠地を東京から利賀村に移し、合掌造りを改造した劇場「利賀山房」を開場したのは、一九七六年。八二年には、ギリシア風の野外劇場を開場し、日本で初めての世界演劇祭を開催した。国際的な文化交流の拠点として、現代演劇のメッカとして、利賀村は世界のTOGAになったのだ。
私の乗った村営バスは、旅客だけでなく生活物資の運搬にも利用されていた。越中八尾の商店は、あらかじめ電話で注文を受けた食物をダンボールに詰め、運転手さんに頼む。利賀村に入ると、バスはバス停の有無に関係なく民宿や旅館の前で止まる。「これ、彩の宿の分ね」「どうも。いつも」「あっ、違う違う。そっちはスコット」「ああ、おっきいものね」工藤旅館とか佐藤商店とかと同じレベルで、日本を代表する現代演劇の劇団が地元に根を下ろしている。利賀の人たちも、村芝居を観に来るようにフェスティバル参加の劇団の芝居を観る。こんなふうに、芸術がちっとも威張っていなくて、当たり前のように日常になじんでいる光景は、なかなか見られないと思う。
このフェスティバルを企画・運営する(財)国際舞台研究所は、日本を代表したり、世界的な財産になりうる精神文化活動が、東京から生み出されるというのは幻想だと主張する。実際に芝居を観終わって劇場から出たときに、ちまたのネオンではなく、空と区別のない真っ黒な山々と、見たこともないほどたくさんの星が眼前に広がっているのを目の当たりにすると、その主張はものすごいリアリティーを持って迫ってくる。
さて、どうする青森?
1997.5.22
3. 三十路の振り袖
一枚の写真がある。私を含む三人の女性が、ホテルの結婚式場で振り袖(そで)を着てほほ笑んでいる。白地にぼたんの花、朱の総絞り、鮮やかな黄色に御所車…オーソドックスな、いかにも振り袖どぅえーすという絢爛(けんらん)の中に、一つだけ似つかわしくないものがある。それは、三人の顔。初々しくも華やかな世界で、三十路(みそじ)の顔は致命的に浮いている。
この写真の背景を話そうか。ある友人が、二十九歳になるときに「二十代のうちに絶対結婚する」と宣言し、大激論大会と相成った。「二十代でっていうのが、そんなに大事?」「うん。三十でウェディングドレス着るなんて、やだもん」「年なんか関係ないじゃない」「関係ある」「どんな相手かの方が重要だと思うけど」「…」「あせることないって」「でも、ゼーッタイ二十代のうちに結婚する」
あまりにも違う結婚観は、いくら話しても平行線。写真の三人は、説得をあきらめ(まあ、別にかけこみ婚を阻止しようという強い意志があった訳でもないのだが)、できるもんならしてみればあと達観したのだ。「じゃあ、ほんとに誕生日までに結婚したら、私たちも二十代最後の思い出に、振り袖着て行くよ」「きゃあ、はずかしい」「いいんじゃない? 別に。宇野千代だって着てるんだから」
そして、彼女はさっさとお見合いして、さっさと結婚を決めた。
約束したから、という理由以外に、もう一つ。うち一人が、一度も振り袖を着たことがないという事実が判明したのだ。彼女のおばあさまに写真を見せるという大義名分を得て、私たちは、『獄門島』の三人娘さながらの振り袖姿で式場に乗り込んだ。
私個人は、日舞をやっているので、小さいころから和服を着ることが圧倒的に多かったし、そもそも好きなのでよく着る。しかし、振り袖はちょっと別物。あの長い豪著(しゃ)な袖をヒラヒラさせて、無防備に若い女のフェロモンを発散するアレは、「娘」という特別な時期だけに許された特権だと思う。『藤娘』の衣装は舞台以外でも「無垢(く)な?娘」の象徴であり、女子高生のセーラー服、あるいはミニスカート、ルーズソックスと同様の記号なのだ。
さて、この写真からすでに五年たつ。さすがに今なら、振り袖は着れないよなぁ…あれ? 待てよ。それって、二十代のうちにウエディングドレスを着たい花嫁の気持ちと同じではないか。どちらも「女の年齢」にとらわれた考え方である。三十路を過ぎて振り袖を着てはいけないのか。否。三十路を過ぎてウエディングドレスを着てはいけないのか。否。本当はいけない理由など何もない。
1997.6.26
4. 「なきゃ」の重圧
社会人になれば宿題なんかなくなる、と思っていた。ウソだった。締め切りのない永遠の課題が、いつも私の肩にぐしゃっとのしかかっている。
大きく、三つ。「貯(た)めなきゃ」「やせなきゃ」「身につけなきや」
「貯めなきゃ」といっても、目標をもって何億円貯金しようとか、ケチケチしたいとかいう意味ではない。まあ、もうちょっと堅実に暮らした方がいいかな…と、ときおり思い出したように不安になるだ。ブランド物には興味がないし、バーゲンに走るのが趣味という訳でもない。でも、同年代で妻子を養ったり(信じられない!)、家を買ったりしているのを見ると、やはり考えてしまう。タクシーに乗り過ぎるのかなあ…芝居のチケット代はかさむし…今度旅行にも行くし…この前も酔っぱらっておごっちゃったしなあ…と、いつも一応反省。
「やせなきゃ」は、現代の日本女性が共通して抱えるテーマだと思うが、あと三キロの壁はとにかく厚いのである。一キロやせたといっては一喜し、二キロ戻ったといっては一憂する。我ながら、飽きもせずよく同じことを繰り返すなあと思うが、事実三百六十五歩のマーチだから仕方がない。なぜか。答えはかんたん。ダイエットも大事だけれど、楽しく語り合いながらおいしいものを食べるのが、人生の醍醐(だいご)味だと思っているから。いいのよ、いいのよ、あとで運動すれば…ああ!
「身につけなきゃ」は、まじめに言えば「もっと勉強しなきゃ」。お免状取得が趣味で、習い事に奔走する人の気持ちはよくわかる。とにかく、今のままの自分では、不安なのだ。その最たるものは、英会話とパソコン。英語なんて、話せないのはもちろん、今や中学レベルのスペルさえ忘れている。今更お金を払って語学学校に通うのも悔しいけれど、独学するほどの強い意志も持ち合わせていない。パソコンに至っては、仕事で必要に迫られているのに、全然詳しくならない。とりあえずワープロとしてなんとか触っているが、パソコン雑誌をパラパラめくっても、一向に知識が増える気配はない。インターネットという単語を聞かずに一日も過ごせない昨今、苦手では済まされないのだが。
「なきゃ」プレッシャーは、思い出したようにグワーンとシンバルを鳴らすこともあるが、普段はBGMのように低く静かに流れている。どれもこれも、根本的に解決できないのは、ひとえに私が根性なしだから。だが、もう一つ。もしかすると、私は、宿題がある状態が好きなのかもしれない。最終日まで、宿題をやらずに遊びほうける夏休み。「ホントはやらなきゃ」というプレッシャーが、楽しさに甘美な香りをプラスする。しかも、大人の場合、考えようによっては、夏休みは終わらないのだから。
1997.7.31
5. ツェルニーの呪い
今年の正月、青森のピアノの先生のお宅にご年始に伺った。東京の狭いマンションにヘッドホン付きの電子ピアノを買ったと報告すると、先生は「本当ですか」と目を丸くされた。驚かれるのも無理はない。おけいこに通っていたころは、ピアノ嫌いを判定する試験紙があったら、瞬間でピッと真っ赤に反応するような子供だったのだから。
曲名のない、番号だけの練習曲が嫌いだった。アルペジオが嫌いだった。とにかく、練習が嫌いだった。一週間前のおけいこのときに頂いたお菓子は、次の週そのままカバンに入っていた。本来、練習の成果を聞いていただくべきなのに、一週間ぶりにピアノに触るのだから、うまく弾けるわけがない。当然つっかえる。お目玉をちょうだいする。その場でむりやり練習する。弾けない。先に進めない。そのメロディーさえ嫌いになる。宿題になる。弾く気になれないまま、また一週間が過ぎる。一週間ぶりに弾く。当然つつかえる…悪循環を説明しなければならないことがあったら、いつでもこの例を引いてください。
習いたくて、習い始めたのになあ。ピアノを買ってもらったころは、うれしくて、毎日ピカピカに磨いていたのになあ。「あの、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』なんですけど…」「ああ。いい曲ですね」「弾いてみたいん…」「ああ、十年早いですね」。あくまでもやさしく、間髪を入れず、先生はおっしゃった。こっそりトライしてみた。だが、実力以上の曲を弾きこなせるわけもなく、ショパンのノクターンやムソルグスキーの「展覧会の絵」同様、見事にイントロで挫折した。
いきなり、好きな曲をタリラリラタリラリラと弾きこなしたいなんて、虫がいいことを望んでいた私の前に、ピアノの魔女が現れた。「ちっとも練習しないこの娘に、ツェルニーの呪(のろ)いをかけてやる! 年とったとき、ピアノが弾きたくて弾きたくてたまらなくなるだろう!」
まさしく、ツェルニーの呪い。東京に出てからの私は、帰省の度にほこりをかぶったふたを開け、ピアノの前に座るようになった。しかし、この呪い、なんだか楽しいぞ。指はドラえもんの手のように固まって動かないのだが、歌心とでもいうのだろうか、不思議なことに「奏でる」という気持ちがわき上がる。初歩のブルグミュラーの練習曲なんぞを思い入れたつぶりに弾いてみる。気分だけは、すっかりピアニスト。調子にのって、電子ピアノまで買ってしまったというわけである。
先日、こんな不肖の弟子に手を焼かれた、かの先生が急逝された。お葬式で流れていた平たんなお経は、私の耳にはツェルニーの音階に聞こえていた。先生、ごめんなさい。ピアノに触らない生徒に、ピアノの教えようがありませんよね。でも、あきれながらもご指導を続けてくださった先生のおかげで、私は今でもピアノに触っていますよ。きっと、おばあさんになっても、タリ、ラ、リラと、弾いていると思います。山本正先生に、合掌。
1997.9.4
6. 私のテレビ離れ
えっ!と思った。「テレビ離れ? 気になる視聴率低下」という新聞の見出しである。なんでも、調査会社ビデオ・リサーチの関東地区の総世帯視聴率が、テレビ離れか?とささやかれた十年ほど前の水準に落ち込んだらしい。しかし、私が驚いたのは、「1世帯1日8時間28分(93年)→7時間57分」という小見出しの方である。三十分減ったかどうかより、みんなそんなにテレビを見てるの? というショック。だって、八時間ですよ、八時間。一日の三分の一ですよ。
たぶん、ほとんど見ない平日と集中的に見る土日を平均して、私の平均視聴時間は一時間半くらいだと思う。一体いつのまに、私はテレビ離れをしていたんだろう。
テレビを否定する気なんて、毛頭ない。両親がテレビ局に勤務していたので、テレビにご飯を食べさせてもらって大きくなったようなものだし、現在の糧である広告の仕事だって、テレビ抜きには語れない。わざわざビデオにとって、毎週欠かさずに見るお気に入りの番組も、いくつかある。しかし、八時間は見ない。いや、見られない。
小学校のとき、学活!(なつかしい)の時間に、テレビ視聴時間について話し合ったことがあった。宿題をしないのはテレビを見てるから、とかいう話から、一日に見てもいい時間を決めましょうという方向に展開し、たしか、一日三時間半か四時間に設定されたと記憶している。いかにも小学校のホームルームといったやたら民主的な話し合いだったが、とにかく、当時は私も恐ろしいほどのテレビっ子だった。いや、小学生のころだけではない。高校卒業までは、二局しかなかった民放とNHKを見まくって、大人になって宿題も試験もない生活になったら、心おきなくテレビを見ようと決意していたのだ。
あのころ、私は情報も刺激もテレビから得ていた。ドラマやバラエティーやコマーシャルから、「同時代」や「私がこれから向かう場所」を吸収していたのだと思う。「未知の東京」も「未経験の大人の世界」もみんなテレビの中にあった。そして、テレビ自体が若くて元気だった。
私のテレビ離れの原因は、もちろん在宅時間そのものが短い(しかも、その大半は睡眠時間)私の生活パターンにある。しかし、私が仕事柄スレてしまったのを差し引いても、今のテレビははしゃぎ過ぎの子供のようで、見ていてつらいときがある。テレビで発信していることは、本当にちゃんと受け手に届いているんだろうか。ワイドショーもトレンディードラマも、隣の部屋でだれも見ていないのにつけっぱなしになってるような、どこか遠い感じがしてならないのだ。
1997.10.9
7. 温泉泥棒
先日、ある温泉で泥棒にあった。その長い話。
青森県文化振興ビジョン策定記念一九九七年度青森県舞台芸術活性化事業という、長ーい名前の県のプロジェクトがあって作・演出長谷川孝治「休憩室」が今月、県内外で上演される。で、私の所属する劇団「青年団」からも山内健司、安部聡子が弘前に住み込み、けいこに励んでいるので、青森出身の友人としては、寒さに震え、異国で苦労する彼らを見舞わねばと、浪岡、弘前まで足を延ばした訳だ。
私の心配をよそに、彼らはすっかりなじんでいた。けいこのあと繰り出した弘前の夜の街で、「ちなっちゃん、こっちこっち」と呼ぶ姿は、どっちが客人かわからない。
さて、一宿一飯の恩を受け、帰ろうとすると「温泉に行こうよ」と言う。車でちょっと走ると、ひなびたいい感じの温泉があるのだとか。岩木山の見える温泉か、いいな。
という訳でりんご園を抜けると、そこは温泉だった。いまどきのクアハウスではなく、まごうことなき昔ながらの温泉。「いい湯だな」と「りんご追分」を交ぜて鼻歌で新曲を完成させたころには、ホカホカぽっぽなツルツル美人の完成である。脱衣場に、おばあさんが三人入ってきた。「安部ちゃん、何話してるかわかる?」「全然」「連れはお昼も食べずに踊り続けているけれど、彼女は夕方帰るまでこのまま踊り続けるのだろうかって」「すごーい」
ロビーでりんごジュースを飲んでいると、男性軍がのそのそ出てきた。岩手から参加してる役者のくらもちひろゆきさんが、あっと声をあげた。「さいふ」と、脱衣場へ引き返す。あわてて戻って来る。「ない」山内さんも一緒に脱衣場へ。暗い表情で戻る。「やっぱないわ。とられた」こうして、幸せな昼下がりは、悲しい午後に一変した。
青森県で起こった泥棒は、なんだか私にも責任の一端があるような気がして、つらい気持ちになった。山内さんは、それは間違ったナショナリズムだと言うが。
二人の警官は、パトカーではなく白いバンでやってきた。くらもちさんが、「私が電話をした被害者のくらもちです」と、怪しく名乗り出た。「こちらには、観光で?」「いえ、実は、話せば長いのですが…」。二人の警官は、興味深げに役者たちを見つめる。ほどなく、さっきのおばあさんたちが、登場。輪になり、無伴奏で黙々と踊り始めた。警官は、とつとつと尋ねる。くらもちさんは、淡々と語る。第一幕第三場、事情聴取。あたかも芝居のワンシーンである。
警官の最後のせりふ。「県民のために、どうか防犯の寸劇も上演してください」彼の名刺にも、活彩あおもりのマークが輝いていた。
1997.11.13
8. 考察うれしいおくりもの
だいたいにして、今回のタイトルはおこがましい。おくりものを頂いたら、もうそれだけで感謝感激するべきなのであって、うれしいだのうれしくないだのティファニーがいいだのシャネルのそれはもう持ってるだの値段が高いだの安過ぎるだのなんだのかんだのぐだぐだ言うべきではなく、ましてや一緒に買いに行ってねだったりするなんてもってのほかである。
だが困ったことに、気持ちはありがたくちょうだいするとしても、プレゼント自体がうれしいものかどうかは、また微妙な問題をはらみ始める。たとえば、「工藤さん、青森出身だからスキー好きでしょ。最新モデルのスキー一式、スノボーもつけて、良かったら…」とか言われてしまうと、(そんな人いないか)いくら気前のいい人でも「ほんとに私のお知り合いですか?」と尋ねたくなってしまう。
女性から男性へのプレゼントを考えた場合一手編みのナントカは怖い。一生懸命が露骨過ぎて、私を好きになれと脅迫しているような感じがする。ちなみに、うちの劇団に明らかに手編みとわかるセーターを着ていた男の子がいたので、「手編みね」と声をかけた。返答は、「これ、××さんが前の彼女からもらったヤツ。ぼくには怨念(おんねん)、関係ないから」。
おくりものは、本当は、もらう側より、おくる側の楽しみだと思う。相手に対する自己主張、相手が喜んだという自己満足。こういう物を選ぶ私のセンスって、なかなかでしょ。こういう物をプレゼントする私を好きになってくれたらいいな。だから、あげた後のことは置いといて、選んでいる時間やあげる瞬間が、とても幸福なのだ。
さて、私のおくりもの美学のポイントは、消えるものであること。たとえば時間。散歩するとか、お食事をおごるとか。気持ちだけが伝わって、形は残らないのが良い。特に、異性へのプレゼントの場合、ネクタイやアクセサリーのたぐいは、相手の人生に踏み込み過ぎていると思う。「私の人生の二時間だけをあなたのために」って、合理的にロマンチックだと思いませんか。もし、形が欲しいなら花。ありきたりだという声も聞こえてきそうだが、花をおくられて喜ばない女性はいない。照れくさそうに抱えてきてくれたら、余計うれしい。花という美しい消耗品は、相手のことを考え、選ぶ時間を内包している。
ある夏の日、川沿いのレストランに行ったときのことである。二杯目の白ワインがつがれたとき、対岸で小さな花火大会が始まった。あんまりタイミングが良かったので、「ありがとう、私のために」と、笑った。連れの大うそつきは「大変だったんだよ、この仕込みは」と、返した。本当に花火大会をプレゼントするような段取り君は嫌いだが、そんなジョークひとつが、結構うれしいおくりものだったりするのだから、女心を満足させるのは、やはり難しい。
1997.12.18
9. おいしい虫
「よくそんなの食べるね」は、禁句だと思う。味覚なんて、ベロの慣れ。育った環境とか文化に、多大な影響を受ける。ほんと、人それぞれ。
私の連れ合いは、長野県の出身である。長野は海のない県なので、昔から動物性たんぱく質を摂取するのに貝や魚ではなく、イナゴとかザザムシとか虫さんを召し上がる。さすがに今はもうと思っていたら、そこが文化の恐ろしいところ。「それは、おいしい郷土料理」という考え方が、信州人の心には脈々と受け継がれている。
遊びに行ったとき、おかあさまが息子のためにイナゴを煎(い)ってらした。「きのう庭で捕ったから新鮮なの。今回、足を取ってないから、ちょっと手抜きしちゃった。あっ、チナツさん、無理に食べなくてもいいからね」
愛知県出身と神奈川県出身と福島県出身の友人と、ソウルに旅行に行ったとき、虫さんを食べる状況に陥った。そもそも、この旅は、どうせハングルのメニューは読めないのだから、何でもトライして韓国文化に触れようという趣旨だった。はたから「アレとアレとアレ」と、指さして注文した。ものすごく辛い料理とか、見慣れない顔の魚とか、経験経験とパクパク食べた。ところが、出たのだそれが。真っ黒いサナギさんの佃煮、のようなもの。愛知県出身は、まっさきに一個食べてフームと言った。神奈川県出身は、これはちょっとと棄権した。青森県出身の私は、目をつぶって一個だけ食べ「ふぎゅっ」と形容した。ずっと躊躇(ちゅうちょ)していた福島県出身は、よし!と決意すると続けざまに三個食べて涙を流した。
ちなみに、真っ先に食べた愛知県出身の友人は、十年近く「豚の丸焼きプロジェクト」というイベントを主催している。実際に自分たちで豚の丸焼きを作ってみようとすると、豚一匹の入手方法、きちんと丸焼きにする方法など、シェフじゃない現代人がふだん意識しない問題にぶち当たり、食べるという行為と最も原始的かつダイレクトに対時(たいじ)できるのだそうだ。
大島弓子さんの「綿の国星」というマンガで、食べるって何なのか考えさせる話がある。主人公のチビ猫が、それまで好きで食べていた魚が生き物だった事実に驚き、いっさい食物を受け付けなくなる。菓子パンさえもかつて生き物だったと思いこみ、かわいそうとなでるばかり…。
植物と動物は、違うのだろうか。痛いと感じなさそうな生き物は、食べるのに抵抗がないだけなのだろうか。食べ慣れている動物は食べ物で、食べ慣れない動物は生き物なのだろうか。生き物と食べ物は、違うのだろうか。ホヤもウニもアンコウもクジラもイルカも食べる故郷に思いをはせながら、食の哲学は果てしなく続く。食べ物になり得るすべての生き物に感謝して、「いただきます」。
1998.2.12
10. 母と、娘と。
「十一歳の秋、私は娘を一人生んだ。」という書き出しは、あまりにレトリックに走り過ぎているだろうか。
私が十一歳の秋、父が亡くなり、母は未亡人になった。思えばその日から、母は、ススムチャンの奥さんでもチナッチャンのおかあさんでもなくなり始めていたのだが、私も含めてまわりの人々は皆、その二つの衣越しに彼女を見つめていた。本人もまた、今回の出版という完全脱皮に至るまで、二つの衣を巧みに鎧(よろい)にしていたきらいがある。
十年ほど前、母は川柳を始めた。柳号を青夏とつけたと聞いて、正直ちょっと待ってよだった。父のペンネームである北津青介の青と、娘の名前千夏の夏をくっつけただけなんて、あまりにも安易ではないか。せっかく自分の世界を持つなら、全く違うところがら発想すればいいのにと文句をつけた。
だが、今回母が上梓(し)した川柳集「北の女」を読んで、考えを改めた。いつまでも「わたしのママよ」と甘えていたのは娘の方で、工藤青夏はいつのまにか一人で毅然(きぜん)と立つ表現者に成長していた。母の川柳について書くのは照れくさいが、最も事情通のファンとして発言してみたい。(子ばかの部分はご容赦を)
工藤青夏はうそつきである。いや、寺山修司ばりに虚構を織りまぜて読者を翻弄(ほんろう)する、ドラマ作家である。
母になる娘へおろおろとある覚悟 青夏
月にうさぎ孫に教えて叱られる 青夏
この二句を読んだら、だれだって娘の私が出産経験を持つと思うだろう。おあいにくさま。だから、恋愛関係の句も要注意である。工藤青夏は正直である。いや、専業主婦時代に彼女の中に沈殿していた思いが、表に出せるほど昇華されたのか。
不信の朝豆腐みじんに汁に浮き 青夏
あきらめの漬物石に冬日射す 青夏
煮くずれる芋と思想を持て余し 青夏
私が幼いころ、母は、手に入らない何かを求めて悩んでいた。父の死によって自己実現の手段がもたらされたのは、あまりに皮肉である。本当は、あのころから自分でなにかを始めなければならなかったのだ。好むと好まざるとにかかわらず、未亡人になって母の新しい人生が始まった。「ママは私に子供1がいなくてかわいそうと言うけれど、パパが亡くなった日、ママは私の娘にもなったのよ。だって、あの日以来、私の方も、ママの個人としての成長を見つめ続けているんだから」
孤軍奮闘あなたに似た子育て上げ 青夏
親の老いだけでなく、親の成長も見ることのできる私は幸せものである。ちなみに、今年、私は母が未亡人になった三十六歳になる。
1998.3.26
11. シンガポールの胃袋
文字通り、おいしい仕事だった。同僚のアートディレクターが、「それって、クドウチナツの食べ歩き?」とうらやましがったくらいだから。
某航空会社の広告を担当しているのだが、今年は、グルメをテーマにしたキャンペーンを展開することになった。その国の料理を食べに、そこの飛行機に乗って行きましょう、というわけである、食文化や料理を紹介するためには、やっぱり現地で食べなくっちゃ、ね。
シンガポールは、おいしい。担当コピーライターとしてだけでなく、純粋に個人的にもそう思う。エスニックはもちろん、中華料理、マレー料理、中華とマレーが混じったニョニャ料理、インド料理、フランス料理、イタリア料理、和食…さまざまな民族が共生する国だけあって、幅広く、どれもが本格的である。
一日目の夕方、シンガポール到着。夜はニョニャ・レストランで、タイの頭を丸ごと煮た「フィッシュヘッド・カレー」、笹に包まれたかまぼこっぽい「オタオタ」、ココナツ昧のおしるこ風デザート。中国人男性とマレー人女性の結婚で生まれた料理か……まずは、取材もお腹も軽快な滑り出し。
二日目、市場のホーカーズ(屋台街)で朝がゆ、大根もち、ダックと豆腐のチリソースあえ、「豆花」という豆乳のプリン、ライムジュース。午後、中国式作法でいれるお茶と茶菓子。そして、期待のドリアン体験。想像したほどにおいは強烈ではない。夜、「スチームボード」と呼ばれる海鮮しゃぶしゃぶに大感動。おそるおそるビールに挑戦するが、ドリアンとの食べ合わせの兆候はなし。
三日目の昼、ビルの中の近代的屋台山フードコートで、「ラクサ」と呼ばれるココナツミルク味のラーメン。さらに、昼下がりのハイ・ティー。当地では、ケーキやスコーンだけでなく「ホッケンミー」などのローカルフード、カレー、生ガキまでとにかく盛りだくさん。夜は、海辺でシーフード。チリソースのカニ煮込み「チリクラブ」やガルーパという大きな白身魚の姿揚げ…私のほっぺは落ちまくった。
四日目、チャイナタウンのホーカーズで「肉骨茶(バクテー)」とお茶。リトルインディアへ移動して、インド風お好み焼き「ムルタバ」とプレーンな「ロティ・プラタ」。最後の夜は、胃を休めようと中華の薬膳(ぜん)で締める。
ふーっ。私の生涯で、これほど食べることに意識のすべてを集中した四日間はなかった。食べるためにスケジュールを組み、注文したすべての料理の写真をとり、味の細部まで記憶にとどめようとメモしまくった。広告は、嘘をついてはいけない、と信じている。訴求する商品の一番すてきな部分を、どう伝えるか。そのためには、コピーライターは、魅力も欠点もしっかり把握する必要がある、だが、忙しい毎日、こんなにじっくり取材できることなんて、めったにない。本当に、おいしい仕事であった。
1998.4.30
12. 行儀のいい煙
私は、たばこを吸わない。だが、商品テレビコマーシャルの禁止、国内便の飛行機全面禁煙…と、相次ぐニュースを聞いていると、何かひっかかる。なんだか、魔女狩りのように、ヒステリックにたばこの火を消し回っている感じがしてならないのだ、「たばこを吸わない自由」と「吸う自田」が平等であること、それは単なる理想だろうか。
真の公平さを追求すると、今のような中途半端な禁煙席・喫煙席のシステムでは、意味がないと思う。だれだって、他人の副流煙で、がんになんかなりたくない。吸いたい大人は、健康上のリスクを冒してでも、とことん吸えばいい。ただし、それが吸わない人の健康をおびやかすなんて、もってのほかだ。
ノンスモーカー用の生命保険が出た。私なら、スモーカー専用の保険を提案する。掛け金は、めちゃくちゃ高く設定ずる。スモーカーは、肺がんになったときのためにせっせと払い、安心して吸い続ける。スモーカー専用の飛行機も飛ばそう。エアカーテンだの喫煙席だのケチなことは言わないから、吸いたい人は、その便を選んで、もくもく煙をたてながら旅行すればいい。他人の煙は、イヤ? そんなたわごとを言っているから、ノンスモーカーの天下になってしまうのだ。
異体的な有害物質や煙の除去の問題は、科学の進歩が解決してくれるだろう(そこは、だれかにおまかせしちやいます)。問題は、喫煙者のマナーである、こんなに喫煙者に甘い私でも、まゆをしかめるような光景が、なんと日常的に繰り広げられていることか。地下鉄を出た途端に、歩きながらたばこを吸い始める人。たばこを持った手を、元気に振りながら歩く人。灰は? 吸いがらは? なぜ、携帯灰皿を持たない? なぜ、喫煙できる場所まで、待てない? 仮に、駅が全面飲酒禁止だって、アル中でもないのに、駅を一歩出たとたんにポケット・ウイスキーをなんていう人がいるだろうか。自分さえ良ければいいという傍若無人な喫煙者の態度が、たばこバッシングをエスカレートさせているのだ、単なる中毒で、なりふりかまわす吸い続けなければ生きていけないのなら、それはもう、私が擁護したい「大人の文化」としてのたばこの存在意義は消えてしまっている。どうか、マナーを大切にして、美しくたばこをたしなんでほしい。
えっ? スモーカーの味方なのか敵なのか、けむに巻いている? いやいや、私は、スモーカーの方にはつらい時代だからこそ、彼らにとことん吸ってほしいのだ、慎みをもって。真の自由のために。
1998.6.4
13. 唸れ!体育館
私の出身中学の音楽教育がどうも尋常じゃないと気づいたのは、東京に出てきてからだった。どこの県のだれに聞いても、朝な夕な全校生徒が一人残らずあんなに合唱をし続ける中学校は、存在しないようなのだ。
クラス対抗の合唱コンクールが、年に二回ある。放課後の練習はもちろん、朝レンも昼休みレンもやる。自習と言われると、大喜びで合唱の練習をする。たかがクラス対抗なのに、負けると泣く。男子も泣く。転校していく友達を見送るときには、青森駅のホームで歌う。青函連絡船の桟橋でもハモる。北へ帰る無口な人々がみんな見ていても、指揮者はタクトを振り続ける。
卒業式たるや、すごい。まさにラスト・コンサート。在校生や卒業生のシュプレヒコールは、歌への導入に過ぎない。ます、一人が「桜のつぼみもふくらみ始めた三月、私たちは卒業します」と叫べば、卒業生全員で「卒業します」と応じ、それはそのまま合唱曲「早春」へとなだれ込む。母親への感謝を歌う「一日になんども」で、おかあさんたちを泣かせる。壮大なクライマックス、組曲「筑後川」の「河口」でフィナーレを歌い上げる。十曲以北の歌があり、歌い終えた卒業中だちは、涙をふいて普通の女の子や男の子に戻る。
なぜ、あのころ、あんなに合唱にハマッていたのだろうか。私は、純粋な音楽的興味より、「コーラス・ハイ(?)」が原因ではないかと密(ひそ)かに疑っている。まあ、指導されていた先生は、きちんとした教育方針をお持ちだったろうが、私たちは、ハーモニーの微妙な美しさよりも、でっかい声で、ハモりながら絶唱するのが好きだった。「アーメン」でノリにノるゴスペル・ミュージックのように。ピアニッシモなんて、問題外。とにかく、フォルテッシモ。学年七クラス、三百人弱。全校生徒なら八百人ほどの声が集まると、「そのぉ、ふぃなあーれー! あーあー!」という音波が窓ガラスをゆらす。体育館が唸(うな)る。空間がぐにょぐにょっと曲がる。音が体を包み込む。あのとき、私たちは体育館ごとトリップしていた。
音楽は、本来もっとデリケートなものなのだろう。でも、当時の私たちは、自分たち流の音楽に、ひたすら、ただひたすらにピュアに向き合っていた。教育の思惑を超えたあのまっすぐさは、恥ずかしながら青春のにおいがする。
帰省の際に、中学校のときの友人とカラオケに行くと、みんな異常にレベルが高い。だてに、プロの合唱団が歌う高度な混声四部合唱をガンガンやっていたわけではないのだ。でも、ボックスごときの狭い空間をマイクで唸らせても、あの日の満足感にはほど遠い。体育館を再び唸らせる「合唱同窓会」があれば、ぜひ参加したいのだが。
1998.7.9
14. 超難解英会話実地試験
たった一カ月で英語がぺらぺらになる訳もないのだが、何もしないよりはましだろうと、アメリカに短期留学を企てた。学校と映画館とブロードウェイの劇場以外はどこにも行かないニューヨーク生活は、瞬く間に過ぎ、頭で考える文法と口から出ることばがやっと一致し始めた矢先、帰国。アリゾナ州のフェニックスに住む友人夫妻を訪ねる約束がなかったら、そのまま姿をくらましたいぐらい、ニューヨークを離れがたかった。
リムジンサービスで、ケネディ空港へ。エディ・マーフィが太ったような係員さんは、カウンターで私の荷物を受け取ると、真剣な顔で端末を見つめ、いきなり電話をかけ始めた。えっ? そんなに重くないはず。隣の塩沢ときに似た女性と、ごにょごにょ相談している。と、マイクを持って「飛行機の到着が遅れ、出発は四時間遅れます」と、アナウンス。えっ、四時間も? 仕方なくロビーで待ちを決め込む。ニューヨークも、私を離したくないのね。
一時間ほど過ぎただろうか。なにやら、アナウンス。一回しか言わない。聞き取れない。掲示を確認すると、遅延が欠航に変わっている。ぎょえっ! 再び、カウンターへ。「あのー、どうしても、きょう中にフェニックスに着きたいんですけど」「別のお客さんもほかの航空会社に変更手続きをしていますので、一緒に」「いつ出発ですか」「今夜、六時です」「向こうの時間で、何時に着きますか」「八時半です」英語力に自信があるとかないとか、言ってられない。これはもう、場当たり力の勝負だ。とにかくフェニックスに一刻もはやくたどり着きたいという意志を伝え、必要な情報を入手するために、この一カ月のすべてを集約させてコミュニケーションを図る。
カウンターでのやりとりが終わったからといって、まだまだ安心できない。別のエアラインなので、シャトルバスで全然違う建物に移動しなければならない。係員が随行してくれる訳でもなく、一行八人で勝手に行けという。当然のことながら、みんなアメリカ人。「私は一カ月前に勉強に来ただけで、英語が下手なのでよろしく」と、宣言しておく。「大丈夫だよ」「日本人?」「学生か?」どんどん話しかけられてしまう。「おわびにお食事券くれたのはいいけど、八ドル五十じゃピザも食べられない」「六時まで何してようか」「あなた、お友達にはやく電話しなきゃね」「フェニックスからラスベガスヘは移動しないの?」親しげにおしゃべりする、見知らぬ旅人たち。なんだか、洋画のワンシーンのようだ。なぜか、私も出演しているが。
ふーっ。やっと飛行機の座席に座れたとき、私は思った。今日のこの欠航は、語学学校が仕組んだ抜き打ちの進級試験に違いない。
1998.8.13
15. テラヤマとラーメン
神奈川県に、「新横浜ラーメン博物館」という名所がある。基本的には、おいしいラーメン屋さんが集まったビルなのだが、博物館の名に恥じない企画性を併せ持っている。
インスタント・ラーメン史も外食(出前)ラーメン史もわかる、いわゆる博物館的な展示のフロアでお勉強した後は、いざラーメン体験、全国からえりすぐられたラーメン屋さんが、実際に軒を並べる「街」に降りていく、このラーメン・タウンのコンセプトは、昭和三十年代だ。あっ、「地球防衛軍」と「隠し砦の三悪人」のポスターだ。「お姉ちゃんシリーズ」もあるぞ。と、気づくと、そこは、まるで古い映画館の入り口。おふろ屋さんもある。駄菓子屋さんもある。高い高い天井に描かれた空は、夕焼け。それぞれのラーメン屋さんも、昔風の看板を掲げている。いかにも、美術セット風の懐かしげな町並みを歩いていると、下町恋愛もの映画のロケでもしているような気になってくるから不思議だ「さっちん、二軒目は、どこのラーメン食べてこっか」「やだいじわるばっかり」。ちょっぴりあせた総天然色の世界に遊ぶ客たちは、現代の最高峰のラーメンの味とノスタルジアの両方を楽しむ。
さて、すっかり満腹になった私は、ガムの型抜きに興じる渋谷系の高校生カップルを眺めながら、三沢の「寺山修司記念館」を思い出していた。テラヤマとラーメンを同次元で語るのか、と怒らないでほしい。入場者が身をゆだねる演劇的空間をつくるという点において、二つのミュージアムにとても近いものを感じたのだ。
「寺山修司記念館」の白眉は、何といっても、机の引き出しを用いた展示方法にあると思う。引き出しを開け、懐中電灯で照らしながら、盗み読むように寺山の詩やことばに触れていくその秘め事っぽい行為がテラヤマ的であると同時に、ちょっと離れて、並べられた机とそこで展示を楽しむ入場者たちを見たときに、まるで芝居のワンシーンのように見える二重性が、まさにテラヤマ・ワールドそのものだと感動した。
だが、あえて苦言を呈す。「寺山修司記念館」は、「新横浜ラーメン博物館」ほどお腹いっぱいになれない。展示もビデオも、実にすばらしい。だが、疲れた寺山ファンが食事を取れるとか、おいしいコーヒーを飲みながら「今、テラヤマと話しています」なんてハガキが書けるとか、寺山関連の映画や芝居が常に見られるとか、何か、そこだけに流れる時間を享受できるようなサービスがもっとあってちいいのではないたろうか。アクセスの問題だって、大きい。わざわざ出向くのだから、格調高いミュージアムだって、あご足は重要なのだ。
みんな、街に祝祭を求めている。満足感という尺度で競争するとき、もはやジャンルは関係ない、敵は、ディズニーランドだ。
1998.9.17
16. 芝居に身を乗り出すな
今回のタイトルは、「演劇で身を持ち崩さないように」という比ゆではない。文字どおり、演劇鑑賞の際に、舞台にむかって身を乗り出さないでほしいというお願いである。
自他共に認める芝居狂いの私は、年間で五、六十本の芝居を観(み)る。こう書くと、自分では少ないと思うのだが、とにかくすきあらば、劇場に通う。週末の天気予報が雨でも、ちっとも苦にならない。実に便利な趣味である。最近、気になるのが、観客の態度だ。茶の間のようにぺちゃくちゃおしゃべりなんていうのは言語道断だが、逆に、一生懸命観ようと、背もたれに背を預けずに、前のめりになって観劇する人がよく目につく。劇場のいすの並びは、普通に座って舞台がちゃんと見えるように計算されているから、前の席の客の頭の位置が変わると、その後ろ全体に影響が出る。全員が前のめりになって、苦しそうに観劇しているというとんでもない状況が出現する。
ブロードウェーでミュージカルを観たときに驚いたのは、アメリカ人の観劇マナーのすばらしさである。すでに座っている客は、後から来た客が通りやすいように、一人残らず立ち上がる。不機嫌な顔ひとつせず、「すみません」「どういたしまして」とか声を掛け合う。自分自身が本当に芝居を楽しむために、まわりの人間に不快感を与えないよう、実に自然に気を使うことができる。大人だなあ。
人は、なぜ劇場に行くのだろうか。芝居なんか観なくても、とりあえず生きていくのには困らない。私の場合は、自然の美に圧倒されるより、劇場に生まれた異質の時間の中に身をゆだねるのが快感だから。自分の現実とは違う世界をそこに創(つく)り出すために、生身の人間が動いている姿を見るのが、とにかく好きなのだ。「芝居する」などという高度で愚かなことができる人間って、すごいと思う。好きが高じて、実際に板に乗らなければ気がすまなくなってしまった話は、また別のときに。
以前、連れが、芝居に十五分弱遅れてやってきた。渋谷のスペースパート3。舞台を中央にしつらえ、四方を観客が取り囲む仕掛けだったので、非難の目が私にまで注がれる。がそごそ座る。ッタク。やっと落ち着き、私の神経が芝居に戻ったころ、なんと彼の携帯電話が鳴った。シンジランナイ。あわてて切っても、野田秀樹が芝居しながらにらんでいる。ットニ。ほどなくして、大きく上体がゆれる彼。エーッ、居眠り? ナニ、ソレ? チョット、オイオイ……。
遅刻、携帯、居眠り。人間失格の友人とは、二度といっしょに劇場に行かない決意をした。だが、悔い改めた彼はなぜか私の夫となり、よく晴れた週末も芝居につきあわされる、という重い罰を受け続けている。
1998.10.22
17. みんなの少子化問題
少子化だそうだ。なるほど、私のまわりを見回すと、親になっている友人は少ない。見回すまでもなく、私自身も親ではない。そもそも、人間をつくって育てるなどという難事業を成し遂げてくださる方には、帽子を一万個ぐらい脱いでもまだ足りないと考えている。
「ねえ、今日、ランチしょうよ」銀座の五ブロック先の会社でグラフィックデザイナーをしている友人へが、久しぶりに電話をかけてきた。「…来週じゃダメ?」「今週いっぱいで、産休に入っちゃうんだよね」ついこの前、妊娠の報を告げられたと思ったら、もうそんなに育ってしまったのか、来週あたり、小学校に上がってしまうかもしれない。万難を排して会った彼女は、ふっくらして、そして、慈悲の強そうな顔になっていた。「いやぁ、母親学級とか行っても、他のお母さん、みんな若くてさ」。私より四つも若いのに、アムロのような若いママの体力をうらやましがっている。
十二月に出産し、来年の四月には職場に復帰するつもりの彼女が、一番頭を悩ませているのは、保育園問題だ。希望の保育園に預けられるかどうかは、ぎりぎりまで決まらないという。夫が自由業だと入りづらいとか、審査も厳しいらしい。東京都の保育園助成が減らされるので、定員削減、閉園の話もある。少子化を憂えていながら、ワーキングマザーを助けないのはどういうことだろう。「女性は家庭で子育て」という時代錯誤な決め付けが、少子化に拍車をかけているのに。
マジで怒っているのは、こんな時代にせっかく出産すると決めた人が少しでも生みやすいように、できるだけ応援してあげなくてどうする! と思うからだ。
制度のほかに、精神面の問題がある。某ほ乳瓶メーカーの広告を作ったときに、感じたのだが、社会も、女性たち自身も、「お母さんらしさ」という枠の中に女性を押し込め、追いつめてはいないだろうか。それまで、ブランド物が好きだった人も、モノトーンのファッションを好んでいた人も、いきなり、ピンクのゾウさんやリボンをつけたウサギさんの世界に引きずり込まれる。パステル調の洪水の中で、彼女たちの自我はおぼれ死んでしまうのだ。母親になるということは、一人の人間の趣味し好を捨てることなのだろうか。ウサギさんは、さ細な問題ではない。男性が父親になってもさほど変わらない社会生活を営み、アイデンティティーの崩壊を恐れる必要がないのに、片やウサギさんでは、あまりに不公平である。
赤ちゃん雑誌こそ、「パリ・ミラノ最新子育て」とか「保育園説明会で見かけたすてきなカップル」とか、特集したらどうだろう。子育ては、自分を捨てることではなく、大人と子供が一緒に生きることだというイメージが浸透したら、ママになりたい女性が、ちょっぴり増えるかもしれない。
1998.11.26
18. 選ぶ人、選ばれる人
ときどき、オーディションをする。テレビCMや雑誌広告に登場する役者、モデルを探すためだ。
オーディションですかぁ、いいですねぇ…と、鼻の下を伸ばしているあなた、実態は、想像するほど甘いものではありません。一時間で十二人として、三時間たっても三十六人。かなり疲れる。選ぶ基準が、また難しい。好みの美女を探してどうする? 企業イメージに合うか、今回のシチュエーションに合うか…プロのチェックシートに、プライベートが入り込む余裕はないのだ(ホントハネ)。たった五、六分ではあるが、いや、短い時間だからこそ、選ぶ側は真の魅力を見極められるか、選ばれる側は最高の印象を残せるか、笑顔の鎧(よろい)を身にまとった真剣勝負の場なのである。
相手が、いつも美女とも限らない。おじいさん役のオーディションの長さは、印象深かった。「私がこの業界のお仕事をさせていただくようになったのは、三十八年間勤務いたしました自動車部品のメーカーを定年退職した後のことでございまして……」「戦前に劇団に所属しておりまして、戦争の間はまあアレなんですが、戦後にまた…」ほとんど、生きた昭和史を拝聴。
慣れないころは、選ぶなんておこがましい!と、気が重かった。だが、絶対的な美男美女を神のように選ぶのではなく、そのときそのときのニーズに合った人を探すだけなのだと考え方を変えてから、気持ちが楽になった。もし、あなたが何かのオーディションに落ちたとしても、全然気にすることはない。それは、下町の太陽のような明るい女の子が求められていたのであって、深窓の令嬢のような美しさは必要ではなかったのだから、たとえばの話。
「クドウさん、ちょっとオーディション受けてみません?」。知り合いのCMプロデューサーから、声がかかった。「えっ、私?」「競合プレゼンテーションのためのデモテープなんですけどね、CMソング作ったんですよ。時間もお金もないもんで、うちの事務のオンナのコが歌ったんだけど、これが下手くそで…」。ノリやずい私はすっかりその気になって、スタジオ入りした。ヘッドホンをつけ、気分はプロ。十五秒のフレーズを何度か歌う。「これ、気だるいボサノバなんスけど、もっとアンニュイな感じ、出ませんかねえ。……うーむ。すみません。なんかクドウさんの歌声、アニメみたいで今回のイメージと違うみたいっすねえ」……絶句。
ニーズが違うんだから。イメージが違うだけだから。選ぶ人の立場でいつも言うなぐさめの言葉を、自分の胸に言い聞かせながら、しかし、この悔しさは、いったいナンなんだろ。明日は、明日の風が吹く。来年こそ、きっと風向きが変わるわ。ッタク。
1998.12.31
19. 「工藤」さんであること
工藤なんて、青森では決して珍しい名字ではない。東奥日報を読んでいらっしゃるみなさんには、ご説明するまでもないだろう。
先日、「弘前劇場」の芝居に私の所属する劇団「青年団」の役者が三人客演した。青空の東京から、飛行機で一路白い弘前へ。きゃあきゃあと再会。初めて会う「弘前劇場」の女優さんも、長旅をねぎらってくれた。「いついらっしゃったんですか?」「今朝十一時に青森空港に着くやつで」「あー」「あとはバスで…お昼すぎくらいに」「大変でしたでしょ」「まあ」「今晩のホテルとか取られたんですか?」「私、青森に実家があるので」「…ああ!だから工藤か!」
そんな「工藤」である。むしろ、東京で「クドウ様は、どのような字を…?」とか聞かれることの多さに、びっくりしてしまう。
最初の結婚のときにすんなり名字を変えた理由は、たぶん、好きな人の名前になるの…的な、いわゆる当たり前の結婚観の刷り込みが半分。あとの半分は、ありふれた名字を新鮮なイメージに塗り替えたいという欲求。新しい名字で新しい人生! 幸せに暮らしましたとさ、となるはずだった。だが、いったん工藤でなくなった私は、服の中でスリップの肩ひもがよじれているような気持ちの悪さを味わった。新しい名前で呼ばれても、違うだれかの役を演じている気がする。今までの私は、どこに行ってしまったんだろう? 生まれてから工藤千夏さんであり続けた時間が、ぜーんぶ消えて無くなってしまったような喪失感、それは日に日に強くなる、名字ごときがアイデンティティーにかかわるなんて、私という個人の基盤がそれほどぜい弱だなんて、思ってもみなかった。嫁ぎ先の新しい名前で、妻として母として個人として、新しい人生のキャリアを積み重ねている人って、つくづく偉いなあ。
祖母の時代も母の時代も、結婚で姓が変わるのは、婚家の人間になることだった。実家の人間であることを、きっぱりやめることだった。でも、結婚が家同士ではなく、大当に個人と個人でするものならば、夫と妻の名字は別々で良いのではないだろうか。夫婦がバックグラウンドまで含めて対等に生きるならば、むしろ別々であるべきだと思う。今や、一人っ子や長男長女の結婚だらけで、女性の側も背負わなければならないものがたくさんあるのだ。名字が違うと家族意識を持てないなんて、そんなあなた、ちょっと前まで名字なんて、お侍さん以外はなかったじゃありませんか。
昨今、仕事でつき合いのある人は皆、私を工藤さんと呼ぶ、たまーに、工藤ちゃんと呼ぶ人もいる。夫は私を工藤さんと呼ぶ。私も、夫を彼の名字さん付けで呼ぶ。二人の会話を聞いてびっくりする人も多いけれど、妻を工藤さんと呼べる男性を、私は尊敬している。
1999.2.11
20. タクシーという劇場
もし、世の中に「タクシー利用拡大支援協会」が存在するならば、私は間違いなく表彰されているだろう。運転免許のない私は、実によくタクシーを利用する。ま、ぜいたくなだけ、と言ってしまえばそれまてなのだが。
タクシーは劇場である。スッと手を上げて車が止まりドアが開いた瞬間、ドラマは始まる。主演、タクシードライバー。背中だけの渋い演技で、たった一人か二人かせいぜい三人の観客のために、さまざまな人生を見せてくれる。
「お客さん、これから帰ってご飯作るの?」残業帰りの十時すぎ、信号が赤に変わったのをキューに会話は始まった。「作んないですよ、会社でコンビニのおにぎり食べちゃったから」「…いつもは作るの」「まあ、一応」「おれも作るよ」「そうなんですか」「うちのカカア、料理下手でさ」「あー」「みそ汁も作れないからさ」「でも、ご自分でされるなんて、偉いですよ」「ま、しょうがないんだよね、カカア外国人だから」「あー、そうなんですか」「一昨年結婚したんだけど、こっちの料理はうまくなんないね。向こうのは、おれがちょっと…」五十代前半とおぼしき照れ屋の愛妻家のおのろけは、当然のように目的地まで続く。
「お客さん、大学生?」いくら夜目でも、それは褒め過ぎでしょう。「うちの娘、受験終わったんだけどさ、東大と慶応受かったら、慶応行くとか言ってて、ま、学費のこととかもあるし、せっかく受かった東大をさ…」なるほど、子供自慢の前ふりだったわけだ。
「お客さん、人を見た目で判断しちゃぁいけませんよ」な、なんだ、このいきなりの説教攻撃は! 「いや、お客さんがそうだっていうわけじゃないんですがね、私、ついこの前まで、名前を言えばだれでもわかる会社で役員やってましてね、黒い車で送り迎えされる方だったんですよ。でも、天下りなんかヤだから、好きなときに働ける仕事探して…」。この運転手さんの分厚い単行本上下二冊になりそうな人生は、とても二千五百八十円の距離で聞き終えられるものではなかった。
残念なことに、タクシーという乗り物は、いつもいつも気分良く利用できるとは限らない。運転手さんが絡むような口調なら、こちらも無愛想な客にならざるを得ない。疲れているときや急いでいるとき、会話を楽しむ余裕がないのにやたら話しかけられて困ることもある。どうか、不愉快じゃない時間が過ごせますように。祈るような気持ちで、乗客はタクシーを拾うのだ。
夕やみ迫る五時五十分すぎ。「お客さん、悪い! ちょっと待ってけへ」車は、いきなり国道4号の端に停車した。ラジオからは、先代若乃花、本日最後の一番。「…ようし!」。私の連れも拍手。贔屓(ひいき)の白星に気をよくした運転手さんは、「かに!」と明るくアクセルを踏んだ。
1999.3.18
21. ぢいさんばあさんの桜
「ぢいさんばあさん」なんて、およそロマンチックなタイトルではない。桃太郎? せいぜい、かぐや姫? 森鴎外原作、宇野信夫脚色のこの歌舞伎の名前を初めて知ったときには、まさか、追っかけとして上演を待ちわびるほどのマイ・ベスト・カブキになるなんて、想像もしなかった。
まず、一幕目。観客が照れるほど幸せいっぱいの若夫婦がいる。家中でも有名なおしどり夫婦の「伊織」と「るん」だ。藩命により、明日から一年間、京の都に単身赴任しなければならない伊織は、[いまだほころばぬ庭の桜を来年こそ一緒に見よう」と、るんに誓う。
続いて、二幕目。京の茶屋。ちょっとした祝宴。軽く酔った伊織は、るんが手紙といっしょに送ってくれた桜の花びらを扇子であおぎながら、「江戸の桜が京に散る」と上機嫌。そこに、あー、来ちゃダメダメ、あー……元々からみ癖のある友人が酩酊(めいてい)して現れ、口論の後、オーマイガッ、伊織はそのイヤな奴を斬(き)ってしまうのだ。
いよいよ、三幕目。なんと、三十七年後。オープニングと同じ家。巨木に成長した庭の桜が、満開である。一瞬、一幕目の伊織とるん?と、見まごうのは、家を守っていた若く美しいおい夫婦。お預けの身になっていた伊織と、城に奉公に上がっていたるんが、やっと再会できることが、彼らの会話からわかる。さて、すっかりぢいさんになった伊織と、ばあさんになったるんが登場し……。
この芝居は、三十七年間、手紙も出せず、一度も会えず、ただひたすら相手のことだけを想い続ける、ロマンチックなロマンチックなラブストーリーである。二人が会えなかった三十七年の間には、いろいろな苦労が、さまざまな誘惑があっただろう。でも、二人はお互いを慕う気持ちを維持し続けた。二度と会えないかもしれない状況で、ちょっと気を抜くと、あっと言う間に心変わりしてしまうことがわかっていたからこそ努力し続けた。
一幕目と三幕目、二人の姿はすっかり、本当にすっかり老いて変わっている。でも、容ぼうは白髪のぢいさんばあさんでも、二人の気持ちは、時を超えて初々しい著夫婦のままなのだ。現実には、人の心はうつろうものだと思う。心変わりが世の常だからこそ、伊織とるんの姿が胸を打つ。「ぢいさんばあさん」は、理想である。夢である。このおとぎ話があまりに美しくて、私は見るたびに涙が止まらない。キー・イメージは、桜。はらはらと悲しげに散る桜。しかし、毎年必ず美しく咲き誇る桜。はかなさと永遠を、同時に象徴する。
三月、東京・歌舞伎座に團十郎と菊五郎の「ぢいさんばあさん」がかかった。(おい夫婦は新之助! 菊之助!)大判のハンカチを持参した私は、ズルズルびいびい泣きながら、この春一番の桜を堪能した。
1999.4.22
22. "ノリカ"にナレルカ
「ママ、フジワラノリカになってぇって子供が頼むから、じゃ、髪伸ばずから待ってねって言ってるの」。友人が、四歳になったという息子の話を披露する。結婚式の二次会だというのに、久しぶりに会った同級生たちは、新郎新婦を横目に近況報告に花を咲かせている。「男ってパカだよねぇ、まだ三つとか、四つとかのうちから、オッパイ大好きなんだから」。おいおい、赤ちゃんや幼児がおっぱいを好きなのは当然だろう、と突っ込みを入れたくなるが、その前に、髪を伸ばしさえずればフジワラノリカになれるのか、の方が問題だ。
フジワラノリカ一人勝ちの様相を呈している。コマーシャルの契約は十社を超え、どれがどれだかわからない。それでも、彼女がにっこりほほ笑んでいれば、クライアント各社はみんな満足。こんな世の中なのに、売り上げも伸びる、「やりたい役は、二つある。ボンドガールと実写版ルパン三世の峰不二子」。インタビューでスパッと言い放つ彼女を見ていると、あのナイスバディも、ヘルシー&セクシー&菩薩(ぼさつ)系のイメージも、藤原紀香本人が創り上げ、積み重ねてきたんだなあと感じる。まさに、セルフ・プロデュースの時代の申し子だ。
バブルのころは、ダブルアサノだったっけ。浅野温子と浅野ゆう子にあこがれて、みんなワンレンの髪をアンニュイにかき上げてた。それより前は、聖子ちゃんカットのブローの達人が街にあふれてた。もっと前は……。しかし、今回のフジワラノリカ、クレセント・レイヤーとかいう髪形だけではいかんともし難いところが、難易度高し。
本人たちの人生とは無関係に、記号としてのアイドルは消耗されていく。鮮度のあるうちに、どこまで走っていけるか、彼女たちは時代のスピードと競争している。あこがれの対象の真似ばかりして、自分の個性を考えない、その一点で一般人はアイドルに負けているのだ。本来、同じ土俵で戦える、同じ人間なのに。真似なんかしている場合か。しかも、中途半端に。
とても美人のシンガポーリアンの友達かいる。小柄なジュリア・ロバーツといった感じ。ほめるつもりでそれを言うと「日本人は、なぜすぐだれか有名人に似ているという話をするのか」と、けげんな顔をされた。「仕事で会う日本人は、みんなだれだれに似ているという話題がスキ。シンガポールの人は言わない。私は私。ほめてくれるのはうれしいけどね」。この発言を聞いて、だから、彼女はきれいなんだなと思った。
話は冒頭に戻る。「でも、ヒロスエリョウコになってって言われるよりは、フジワラノリカの方か楽だと思わない?」。私は、本気で言ったのだが、ヒロスエの倍の年齢の乙女たちのだれからも賛同を得られなかった。じゃ、サッチーになって言われる方が、楽な訳?
1999.6.3
23. 文学少女の逆襲
最近、「文学」を売っている。ま、正確には、文学をテーマにした新雑誌創刊キャンペーンの広告を作っているのだが、あきれるほど文学三昧(ざんまい)の日々である「モリエールで人間っていう言葉、使っちゃったから、シェイクスピアは悲劇っていうフレーズにしようよ」「芥川の吸うたばこ、ゴールデンバットだよね」「サドの次は、トルストイね」「ちょっとホメロス取ってくれる?」打ち合わせで飛びかう単語は、文学部の学生のディスカッションさながら,文学とは何ぞや、などと会社のデスクで考える日が来ようとは、はるかかなた昔、一人静かに文学少女をやっていた頃には思いもよらなかった。
文学を、ひとことで説明するのは難しい。「思想・感情を文章に表したもの。言語を表現の媒介とする芸術様式」。辞書ならそれでいいが、広告ではそうもいかない。ただきちんと説明するだけでなく、チャーミングに映らなくては話にならない。文学なんか関係ないや…と思っている方々が、チョツトイイカモ、と雑誌に手を伸ばしてくれるかどうか、それは広告表現にかかっている今回のこの仕事、もともと文学っ気のあるコピーライターという人種が、言語で世界の文豪に立ち向かうという、なかなかの大立ち回りなのである何せ竹槍のペンしか持っていないので、思いがから回りして、没になったコピーも多かったのだが。
文学とは何か。文学なんかなくても、日常生活には困らない。でも、人生には、文学が要ると思う。哲学も青春も死もコンプレックスも恋愛も憎悪も挫折もセックスも失恋も家族も狂気も戦争も平和も誤解も不倫も葛藤(かっとう一も正義も勇気も、すべて文学の中にある。
頭がすっかり文学になっているので、文学談義などしたことのなかった相手にも、本の話をふってみるようになった。すると、どうだろう今まで知らなかった一面が、出て来る出て来る。ヘミングウェイが好きでハリのホテル・リッツ裏のバーまで行った話、池波正太郎の小説に出てくる酒のつまみを実際に作ってみた話、昔シャーロッキアンだった話、学生時代に英語劇てフォルスタッフを演じた話、卒論はサルトルだった話、大学の夏休みに斜陽館を訪ねた話……。なあんだ、みんなバリバリ全開にしていないだけて、心の中に文学青年や文学少女を抱えているんだ。ちょっとつついてあげれば、日本中で休眠している文学心は、一斉に自を覚ますのではないだろうか。
さて、案際のキャンペーンでは、タレント・竹中直人さんに世界の文豪十九人に扮(ふん)していただくという壮大なシチュエーションで「文学を見よ。」と、高らかに歌い上げた。もし、お目に止まっていたら、広告屋冥利(みょうり)に尽きる。シェイクスピアってこんな顔だったっけ、と苦笑しながら文学の方を振り向いて頂けたら余計うれしい。
調子にのって、不採用の分も、コピー供養でご披露させて頂きます.「経済の話しかできないなんて、つまらない奴だな。」「シェイクスピアも知らずに、女がくどけるか。」思い入れが強すぎるのも、むべなるかな。この二つは、元・文学少女から文学への熱い、きっついラブレターなのだから。
1999.7.8
24. シャル・ウィ・ダンス事件
会社の人には、法事ということになっている。だが、実はそのとき私と連れ合いが行ったのは、「達人に習う旅・社交ダンス」だった。
社交ダンスなんて、全く初めての経験である。歌舞音曲好きの私が「これ、いいかも」と、通信販売好きの夫の愛読誌から見つけたイベント。プロフェッショナルに、マンボ、タンゴ、ブルース、ワルツの基本をみっちり教わる一泊二日。地道な努力が苦手な私は、プロに学ぶコツ! ポイントを一気に習得! というような、一夜漬け的集中講議に弱いのである。映画「Shall We ダンス?」のブームに乗ったと思われるのもしゃくだから、公開から時間もたって、タイミング的にもちょうど良い。気持ちの上ではステップも軽やかに、我々は現地に赴いたわけである。
福島県にあるそのリゾートホテルがまた不思議なところで、ホテルマンはほとんど外国人ばかり。英語で対応し、支払いも、そこでしか使えないポンドにわざわざ両替する。部屋のクローゼットに備え付けられたマントをはおり、大きな黒犬を横目に庭園を横切ってレストランのある館に向かえば、気分はすっかりイギリス貴族。ダンスパーティなぞ日常茶飯事、なんでも踊れまっせ、すろーすろー・くいっくなのである。
さて、開けてみると、生徒はたった四組。ダンス歴五年のご夫婦(どう見ても奥様のご趣味)、ダンス教室で知り合った結婚二年目のご夫婦(結婚式でも踊ったとか)、なんとダンス歴四十年のおじいちゃまとおばあちゃま(外国人のご夫婦みたいだった)そして、ど素人の我々。だが、レッスンが始まるや否や、問題は、人数よりもレベルの差であることか歴然となった。結局、先生は私に、先生の奥様は我が夫につきっきりで、文字通り手取り足取りの猛特訓と相成ったのである。(他のみなさん、ほんとにごめんなさい)
レッスン中に先生がおっしゃった「最初に僕と踊ると、もう他の誰とも踊れなくなりますよ」は、嘘でも冗談でも、ましてやくどき文句でもない。先生にリードして頂いていると、なんだか私も踊れているような錯覚に陥る。が、夫と組むと、肩に力が…。足にもつれが…。眉間にしわが…。どう見ても、柔道の乱取りだ。うーむ、ダンスは一朝一夕、一泊二日にならず。フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースヘの道のりははるかに遠い。
その夜、アイリッシュ・バーのカウンターで、先生といっしょになった。汚名返上のチャンス! 実技は下手だが、とにかく踊り系ならなんでも大好きなことをアピールせねば。「先生、『Shall We ダンス?』ご覧になりました?」「えっ?」「ほら、周防正行監督の……」夫の制止のサインより一瞬はやくダメ押しした私は、ヒロイン草刈民代が国際競技大会で踊っていたパートナーが、となりで苦笑しているのに気づいた。
1999.8.5
25. おじさま、お茶をどうぞ
社会人になりたての私にとって、お茶くみ、それは大テーマだった。某広告代理店の営業部のデスク業務に配属された私は、まず、朝九時にお茶をいれる。三時にいれる。帰社前の五時にいれる。お客様がおみえになると、いれる。会議のときもいれる。おみやげにお藁子を頂戴すると、またいれる。なんだか、一日中お茶ばかりいれていた。
「家にお客さんがくると、お母さんがお茶をいれるでしょ。会社だって、同じです」そうかなぁ? 確かに我が家は女性しかお茶をいれない封建的な家庭だったけれど、会社ってもうちょっとシステマティックなものじゃないのかなぁ? カメラマンの事務所とか、男性だけの職場は、新人がいれると思うけど。「じゃ、二時までにウチの女の子に届けさせますから」ふーん。私って、ウチの女の子なんだ。同期の彼のことは「うちの新人のクドウ」みたいに言うのに。
「営業を補佐するのも立派な仕事ですよ。ほら、内助の功って知ってるでしょ。そもそも、女性には補佐的な仕事が向いてるんですから」はいはい。もーいい。女性だからという理由だけで、無条件にそばにいる男性を愛せるものか。
思い返せば、絵に描いたようなセクハラである。セクハラという言葉すらなかったあのころ、私がイラついていたのは、お茶くみという行為自体にではなく、修行中の見習いとしてすら扱ってもらえず、一生そうやってなさいという決め付けに対してだったように思う。お茶くみ問題は、氷山の一角だ。女性は、男性と同じように仕事をする必要なんかないという偏見が、雪かきしても、スコップがささらないほど堅く、どどーんと下に埋まっていた。
さて、十五年近い月日が流れた。私についた貫禄のせいか、時代の変化か、自分で飲むコーヒーぐらいは自分で注ぐ男性がふえたように感じる。もちろん、それぞれの職場の事情や雰囲気によっても異なるだろう。が、たとえば、昨今の我が社の場合は、各階に据えられたコーヒーベンダーに個人個人が百円玉を投入し、一杯ずつドリップするコーヒーをそれぞれに楽しんでいる。ある外資系企業では、ティーレディという専門職がいて、プロとしてお茶をいれたり、セクレタリーを補助したりという話も聞く。
このようなシステムの合理化は、前輪だ。制度として、お茶くみが義務でなくなることは、男女が平等に仕事をする第一歩である。
では、後輪は何か。今更ながら気づいたのだが、それは、円滑な人間関係である。「お茶を召し上がれ」と、疲れた人をねぎらってあげたい気持ち。「ごめんね、忙しいのに」と、感謝する気持ち。「どうぞ」「ありがとう」良きコミュニケーションで、会社生活にも潤いが生まれる。二十代の私は、システムさえあれば、会社に愛などいらないと思っていた。つくづく余裕がなかった。
大丈夫ですか? 奥さんの作ったご飯を、当たり前のように食べる。部下がいれたお茶を、当然のように飲む。そんなあなた、後輪がはずれてますよ。
1999.9.2
26. 告白・私のスポ根修行
「演劇部による演劇上演は、中止になりました」私が中学校に入学したときの新入隼歓迎会で、いきなりそんなアナウンスが流れた。案は、その四月から、演劇部の休部が決まったのだとか。密かに決意していた入部希望先を失った私は、顧問の先生にあこがれて、バドミントン部の門を叩いた。中学総体参加競技の中で、水泳の次にハードなスポーツだとも知らずに。
自他ともに認める、筋金入りの運動音痴である、この年齢になっても体力、筋力の衰えを感じないほど、最初から衰えまくっていた。ものすごい低値安定。そんな私が、中学生というものは、授業が終わった後に部活動に励むものという妙な思い込みに突き動かされて、黙々とトレーニング・メニューをこなしていたのだ。ランニング校庭十周、腹筋百回、柔軟百回、背筋百回、素振り三百回、さらにフットワーク……。クラッ。書いていて、気が遠くなる。信号で走るくらいなら遅刻した方がまし、の今となっては、信じられない。
どんなスポーツでもそうだと思うが、バドミントンは、特に反射神経を要求される。おあいにく様。そんなもの、かけらも持ち合わせていない。自己分析の結果、身長の高さ、腕の力、意地の悪さという三つを武器に、サーブとスマッシュとドロップの特訓をした。動き回ったら負けるのだから、動かずに動かす。完壁だ、理論だけは。
試合のときの、あの暑さを思い出す。真夏でも窓を閉めきり、暗幕をはった体育館。白いユニフォーム。ラケットを構えて相手のサーブを待っていると、額を、胸元を汗が伝う。シャトルの軌跡。ラケットが空気をきる音。ひるがえるスコート、サーブ権の移動を告げる審判の声。……そう、サーブ権。私は無情にもタイムアウトのホイッスルが鳴るようなスポーツよりも、がんばれば、いくらでも長引くしつこい競技が好きなのだ、負けを認めるときには、時間切れのせいにしたくない。スポーツに限らず仕事でもなんでも、負けは、あくまでも自分の責任の方が良い。おお、なんてスポ根な私! スポーツマンシップも根性も精神鍛錬も大嫌いな私の中に、バドミントン部時代に培われたねばりのスピリットが脈々とネバネバしているではないか。
ちょっと自慢させてください。三年生のときには、個人戦ダブルスで市内三位、県大会にまで行った。そこではさすがに一回戦負けだったが。いかに、パートナーが良かったかがわかる。ま、当時、青森市内には、バドミントン部がある中学は五校しかなく、団体戦なんて、一回勝てば市内三位。個人戦に参加する選手だって、テニスや卓球に比べたら、圧倒的に少なかったのだけれど、だが、もう一生得られないこの戦績は、敢えていばりたいぐらいの奇跡なのである。
もっとも不得意なことに取り組んだ三年間は、なにものにも代え難い。スポ根したことのある私は、素直に演劇部に入っていた私と、ひと味違うはずだ。
1999.10.14
27. 「人形か、拳銃か」
「いいの? 甘えちゃって? じゃ、ウチの娘、最近バービー人形に凝ってるから、お願いしてもいい? なんかね、ウェディングドレスが欲しいみたいなの」。本当に、子供って知らないうちに大きくなっている。アメリカはアリゾナ州在住の友人の娘も、いつのまにか四歳。一人前に物欲も成長しているらしい。よっしゃ、おまかせあれ。私も、昔はリカちゃん人形で鳴らした人間です。日本でおみやげを買っていなかった私は、ニューヨークのおもちゃ屋に立ち寄った。
さて、某有名大型量販店に行ってみると、三十年前の松木屋の人形売り場とはちょっと様子が違う。ドレス単体の品数が少なく、人形込みのバリエーションが圧倒的に多い。アメリカ人は、いちいち人形ごと買うのだろうか。子供部屋が、バービーだらけになってしまう。子供本人が着るバービードレスまであるのだが(単にロゴだけっ!)、肝心のウエディング・バービーだけない。よし、次へ。
五番街の高級おもちゃ屋ビル。ガイドブックにもよく出ているので、日本人観光客もやたら多い。どっちが本当に欲しいのか、よく考えてみなさい!」。日本語の罵声(ばせい)が飛び込んできて、見ると、おもちゃを二つ抱えた日本人の子供が泣いていたりする。この店は場所柄もあってか、「オペラ座の怪人バービー」とか「風と共に去りぬバービー」とか「スタートレック・バービー」とかスペシャルバージョンが充実しているのだが、どうしたことか、やはりウェディングドレスは見つからない。
花嫁を探し求める王子様のように店内を歩きながら、私はちょっと混乱し始めた本当に、おみやげはウエディング・バービーで良いのだろうか.人形をプレゼントすることは、物語を提供するということだ。四歳の彼女は、花嫁姿の人形で遊ぶ。花嫁になることを夢みる.結婚を否定するわけではないか、人格形成途上、花嫁のイメージをさんざんすり込まれた結果、単に「将来の夢はお嫁さん」人間に育ってしまったらどうしょう。女はこうあるべき、男はマッチョに男らしくという決め付けは、物心つくかっかないかのうちから微量の毒のように盛られていくのだ。ウエディング・バービーを贈ることは、彼女の将来を狭めることになるかもしれない。拳(けん)銃や刀(ライトセーバー)といったいかにも男の子用のおもちゃを選ぶ気はない、だが、しかし…。
結論を言うと、私は、奇跡的に一つだけ見つかった復古版のウェディング・バービーを買った。スーツ姿でコンピューターを小道具に持ったキャリア・バービーもあったのだが、人形としてあまりにもそそらない。レースのベール、落下傘型のゆったりとした白いドレス、小さきものはいとおかしブーケ、そのあまりのかわいらしさに、私は簡単にころんだ。
まっ、いいか。考え過ぎのおばさんの心配をよそに、花子ちゃんは、うれしそうにウェディング・バービーで、すでに持っていたイブニングドレス・バービーをキックして遊んでたから。
1999.11.25
28. はずかしながら、リベンジ
これが出るころにはもうとっくに楽日を迎えているのだが、一九九九年初冬、日本演劇界の歴史に残る戦いがあった。野田秀樹書き下ろしの「パンドラの鐘」が、野田本人演出バージョン(世田谷パブリックシアター)、蜷川幸雄演出バージョン(渋谷シアター・コクーン)と、全く違うキャストで同時期に上演されたのだ。こんな試みは、めったにない。観客は両方観に行って、「こっちが面白い」だの「あっちが好き」だの勝手なことが言える。そもそも演劇は観客の主観で判断されるものだけれど、それにしても露骨な勝負だ。さて、プロデューサーの思惑どおり両方を見比べた私は、同じ戯曲、同じセリフでも、こんなに違う種類の芝居が出来上がるのだという、当たり前の事実に感動すると同時に、「勝負」について考えていた。
私たちの世代(まっ、ざくっと三十代ということにしておきましょうか)は、勝負ごとに弱い。厳密に言ううと、敗北に弱い。えっ、受験戦争まっしぐら、偏差値やら共通一次やらにモマれまくった輩が何を言うって? 偏差値というものは、私は全体のこの辺にいるという位置を相対的に示す。今日だけ失敗しちゃったぁ、という逃げ道を封じられた私達は、数字を自分の実力として黙って受け入れるほかに道はない。
よく、三十代の人間がなにかしら犯罪を犯すと、偏差値教育のひずみがうんたらかんたら、ということになる。確かに、ひずんでいる。偏差値世代は、悔しいという気持ちをきちんと処理する経験を積んでこなかった。学力以外にも勝った負けたと一喜一憂する場所はたくさんあるはずなのに、悪しき平等主義学校教育は、それを実感させてくれなかった。たとえば、主役と脇役がいる状態は好ましくないから学芸会はやらないとか。運動会で全員に賞品をあげるとか。表面的には戦いは無いものとされ、一方で偏差値以外の勝負の基準を取り上げられてしまったら、偏差値の負け組はどこで挽回したら良いのだろう。
流行語は嫌いなのだけれど、敢えて、昨年、見事流行語大賞に輝いた「リベンジ」について。本来は、復讐、仕返しの意味だが、ちっとも重くない。今回負けたら、次がんばればいいじゃない。次もだめなら、他の分野で勝てばいいじゃない。人生勝ったり負けたりなんだから。勝ち続けることも負け続けることも、確率的にあり得ないんだから。「リベンジ」は、そんな風に応援してくれる。さわやかに悔しさを表現できるって、大事なことだと思う。
さて、冒頭の勝負。野田秀樹本人のことばというアドバンテージはあるものの、やはり野田の勝ち、と、私は見た。私が野田版に一票を投じたって、蜷川さん、別に悔しくないかもしれないけど。
2000.1.13
29. もまれ上手
ああ、またイットキの快楽に身をゆだねてしまった。浪費だとわかっているのにやめられない私の趣味は、実はマッサージである。
最初は、旅先でのちょっとした賛沢だった。バンコクのオリエンタルホテル。へー、豪華なスパ専用の個室で、リラクゼーション・マッサージねえ。全身にパパイアのすり下ろしを塗られて巨大サランラップに包まれた姫君は、洗い流してもパパイアくさい体を優しくもまれて至福の時間を過ごした。
味をしめて、「もまれの旅」に精を出し始める。イスタンブールで体験した本物のトルコ風呂ハマムは、ローマ時代からの歴史を持つ共同スチーム浴場。黒い下着姿のたくましい怪力おばさんが、大理石の台の土でゴシゴシ、ぐうあらぐうあら。シンガポールでは、痛いけど気持ちいい足裏マッサージ。足のむくみも取れて、二時間ほど足が小さくなった。
女性誌の「癒し」特集は必ず購入し、隙あらばもまれようと努力する。友人たちと出かけるかしまし温泉旅行はもちろん、都内で行ける韓国垢すりマノサージ(因幡の白うさぎ気分!)、インド式リンパマッサージ(痛すぎて私はだめだった)、中国王宮美人マッサージ(普通の指圧なのに名前が怪し過ぎる)と、もうなんだかマッサージ評論家のように黙々と挑戦を続けるのであった。
やがて、快楽は私の日常を静かに侵略し始める。余りに疲れた肉体と精神を癒すにはこれしかない! と、ときどき会社の近所のクイック・マッサージヘ。「凝ってますねえ」と言われて、もまれている肩がごりごりと音でもたてようものなら、とてもうれしい。ほめられたような気分にさえなる。
ある日、マンハッタンを歩いていてものすごい頭痛に襲われた。いつも持ち歩いている頭痛薬を飲んでも、全く効かない。大切な約束の時間が迫ってくる。どうしよう。見ると、道ばたに背もたれの部分がドーナツ形の奇妙な椅子が置いてあって、中国系の男性が三人「マサージ、マサージ! テン・ミニツ・テン・ダラアー」と声をかけている。十分十ドル、よし! 恥ずかしいなんて、言ってられない。次の瞬間、私はドーナツ形のでっぱりに顔をつけ、路上のもまれ客となった。プロのテクではない。だが、肩たたき親孝行の経験はあるのだろう、張った首は楽になり、頭痛はじわじわと治まっていった。うーむ、東洋の神秘。
最近、母が、妙なことを思い出した。「あなた、赤ちゃんの頃からマッサージ好きだったものね」「えっ?」「覚えてる訳ないか。あなた、斜頸(しゃけい)でね、県病に首のマッサージにずっと通ってたのよ。他の赤ちゃんがギャンギャンギャアギャア泣き叫んでるときにね、あなただけ気持ちよさそうに、すやすや眠るのよ。県病始まって以来だって、他の病棟のお医者さんまで見に来たんだから」……これが、噂に聞く三つ子の魂百までか。おそろしい。
2000.2.24
30. 女優の名刺
かつて、月刊「広告批評」主催の広告学校で、かの糸井重里家元はおっしゃった。「まず、名刺を作りなさい。そうすれば、あなたも明日からコピーライターです」。なるほど、遠からん者は音にも聞け。そのころ、まだコピーライターの卵にもなっていなかった私は、名乗りによる「自覚」と「自信」と「押し」を学んだ。
実際、プロのコピーライターとして仕事を始めてみると、さまざまな名刺に出くわす。どこそこのっ! だれだれ、という画一的な企業人のものより、どこそこのっ! がない、フリーランスの名刺が興味深い。不思議なことに、仕事ください何でもやりまっせ、という気持ちを表現するのに、その名刺の顔がロンドンとパリほども(?)違う二種類に大別できる。編集、コピー、デザイン、コマーシャル企画・演出、イベント企画・実施、マーケティング、マーチャンダイジング…書ききれないほどの業種を記したびっちり型と、名前と連絡先しか書いていないシンプル型。「あー、じゃ、緊急のときのために、ケイタイ教えておきますね」と、仕方なさそうに、だが、おもむろに書き込むのが後者の特徴だ。
あるCM撮影のときに、日本のビジネスの慣習通り、クライアントも代理店も、みんな両手で名刺を差し出しながら主演俳優さんにあいさっした。すると、そのX氏(うふふ。だれかは、ひみつ)は、そもそも名刺を持たない職種なのに、「あっ、ぼく、名刺ないんです。すみません」と丁寧に謝られた。それ以来、私はすっかりその人のファンになってしまった。
ところで、最近、会社員という境遇を引退した関係で、名刺を持っていない。カリスマ・プー、パラサイト・ワイフ、有閑マダム代理、学生もどき…まあ、肩書なしの名刺を作ってもよいのだが、せっかくぜいたくな充電期間を勝ち取ったのだから、しばらくは、このふらふらと地に足のつかない不安な感覚を楽しんでみるのもいいかも、と甘えている。
自分が何者なのか、それは小さな名刺一枚に集約できることではない。まして、自分の帰属する企業名で表現することでは、決してない専業主婦、リタイア後の人生など、あえて、名刺を持たない生き方だってあるだろう。名刺の本当の意味を習得して社会人になったはずなのに、およそ十五年もまれた世間の垢で、トラの威だろうがネコの手だろうが、借りられるものはなんでも借りる、こすっからい人間になってしまっていた。
いっそ、女優の名刺でも作ろうか。世の中のだれも、所属劇団の演出家でさえも今の私を女優とは思っていないだろうが、実は私の女優としてのキャリアは長い。まだ小学校に上がる前、青森公演に訪れた文学座「女の一生」に出演する現地調達少女というチャンスを、亡父が一存で断ってしまったとき、華麗なる挫折の一歩を踏み出した。世が世なら、杉村春子先生に認められて……まっ、過去はいいか。とりあえず、きょうの肩書はコピーライターである。
2000.4.6
31. 緊急指令チントンシャン
五月の歌舞伎座。團菊祭。三之助の競演で話題の『源氏物語』、その雅(みやび)な美しさといったらもうあなた、「オー、ビューティフル!」と、思わずディスカバー・ジャパンしてしまうのである。新之助の光源氏、菊之助の紫の上、辰之助の頭中将、さらに玉三郎の藤壷というむちゃくちゃ豪奢なキャスティングに團十郎と菊五郎までついてくるのだから、フェミニズム的見地では光源氏が許せないひどい奴だということも忘れて、すっかり見とれてしまう。
私が「いとおかし」かったのは、贔屓(ひいき)菊之助のスタスタ歩きである。長袴の裾を翻し、舞台の下手から上手まで、とにかく元気にずんずん歩く。ミニスカートと見まごう(?)十二単に身を包んだ紫の上はほとんど現代っ子で、光源氏を慕う気持ちがビューンとまっすぐに伝わってくる。奔放でかわいらしいキャラクターや若々しさも、ヴィヴィッドだ。魅力的な着物の着こなしって、別に「なよなよした」いわゆる女らしい動きじゃないのだと改めて感じた。
さて、平素、日本着物推進軍を勝手に名乗る私だが、和服はつくづく難しい。洋服のように自在に着こなすのと自堕落に着崩れるの間には、雲泥の差がある。成人式や花火大会で、両手をにょきにょき出しながらグチャラグチャラ歩いている女の子を見ると、ダッシュしてその子の襟元をきゅきゅきゅっと直してあげたくなるのだが、世の中これだけ着物を着る機会が少なくなっているのだから仕方ないか。
着付けの面倒臭さがまた、ネックだ。着付け教室のお免状を持っているのに浴衣しか着られないペーパー・ティーチャーの、なんと多いことか。そもそも、わざわざ学校に習いに行くというのも、おかしな話だ。ま、人ごとではない。私とて、名古屋帯と小一時間格闘した後、道行コートで帯を締めていない上半身を隠し、近所の美容院に走ったこともある。
本当は、歌舞伎役者のように毎日踊れば、着物は自分の羽になる、いや、もっと簡単。普段着にして、掃除したりトイレに行ったり飛んだり跳ねたりすればよい。結婚式だのお茶会だの花火大会だの特別な場でしか着ない晴れ着にするから、着物に負けてしまうのだ。
衣服は、時代に合わせて変化するものだろう。十二単が現代人の生活に復活する必要などない。でも、たとえば「和服」と接点を持とうという努力を続けないと、日本人全員が日本文化に驚く外国人になってしまう。すべては、あっという間に、トキのように絶滅の危機に…ピーッ、ピピッピー、緊急指令チントンシャン! ラジャー!
という訳で、最近私は、長年お休みしていた日舞のお稽古を再開した。単純? だが、継続だけが、力になる。
2000.5.18
32. 美術館という時間
「二〇〇〇年春、フェルメールを見るという奇蹟。」そのキャッチコピーを読まなかったら、大阪市立美術館まで足をのばさなかったかもしれない。七月二日まで開催されている「フェルメールとその時代展」は、私のようにチラシに吸い寄せられたミーハーと、日本を一度も訪れたことのないフェルメール作品を心から待ち望んでいた熱心なファンで溢れかえっていた。
さて、そこにはフェルメールの絵画が五点あった。確かに見た。パンダを見るように見た。背伸びして、人だかりの奥の小さな絵とリーフレットに書いてある名前を照らし合わせもした。だが、その確認作業と、美術館で絵を見るという本来の行為は、はたして同じものなのだろうか。
「本当、お姉さん、絵好きですよね」「いや、なんか、うん」「フェルメールでしたっけ、あの、手紙を読んでる女の子の絵なんて、こんなんなって見てたでしょう」「ああ」「よだれ垂れそうでしたよ」「やめてよ、だって、あれ本物が日本で見られるなんて、思ってなかったんだもん」「ああ」これは、平田オリザの戯曲「東京ノート」のせりふである。
人々が美術館のロビーを行きかう設定のこの芝居では、絵なんか一枚も出てこないのに、登場人物のおしゃべりを聞いているだけで、ついさっきまで私もフェルメールを見ていたような気になってくる。絵と出会うためにやってきた人、仕事で来た人、大切な人と過ごすために訪れた人…。いろんな事情を抱えて、さまざまな思いを抱いて、人は絵を見ながら自分を見る演劇の観客であるはずの私も、いつのまにか、美術館を訪れてロビーで休む、無口な美術愛好家だ。
かつて、東京都内の美術館を紹介するムックの編集に携わったことがある。良い美術館とは何かを考えるとき、もともと美術史に造詣の深くない私は、収蔵作品以外の条件がポイントだった。建物や庭は美しいか、そこで気持ちよくだらだら過ごせるか、何度でも訪れたくなるか。もちろん、見たい絵があるにこしたことはない。だが、混雑している企画展で満員電車状態で絵画や彫刻に接するくらいなら、ゆっくり画集でも眺めていたいという人間にとっては、美術館への散歩道が邪道であればあるほど、芸術が日常にしっかりと浸み込んでくるような気がする。天気がいいから、公園に行くように美術館へ。
「あのね、絵を見てきれいだなと思うのは、何故でしょう?」「え?」「本当の景色とかね、本物の人間よりも、絵を見てきれいだなって思うのはどうしてでしょう?」「さあ、どうして?」「さあ」「なんだよ」「東京ノート」が演じられる舞台、そこには、たしかに美術館という時間が流れている。
2000.6.29
33. ひとりディナー
その友人を責めることはできない。身内にご不幸があったのだから、私との飲みの約東どころではない。たとえそれが、めったにない関西出張であろうと、もう代わりの誰もつかまえることのできないドタキャンであろうと、決して文句など言えない、ぐちぐちぐち。
という訳で、私はいきなり、心斎橋の夜にひとり放り出された。ホテルの真ん前には、百貨店。デパ地下でお弁当買って、部屋でテレビでも見ながら…いやいや、なにが悲しくて、食い倒れの街でそんな寂しい夕食をとらなければならないのだ。いい大人の女性が、ひとりで食事ぐらいできなくてどうする? おっちゃんがカウンターで渋く飲んでるタレ二度漬け禁止のくし揚げ屋さんは、さすがに誰かと一緒の機会に回すとしても、大阪ならではのうまいもんを味わわずに帰れるか。
それにしても、不思議である。映画館も劇場も、ひとりで全く平気。喫茶店で、読書しながらひとりでコーヒーを飲んだり、モーニングを食べたりするのも大好き。忙しいときに、空いた時間に連れなしでランチに駆けこむこともしばしば。今日の昼だって、ひとりでにしんそばを堪能した。それなのに、なぜ、外食晩ご飯だけ、これほど「ひとり」に抵抗があるのだろうか。「夜」がいけないのか、「女」が悪いのか、いずれにせよこの演歌っぽいキーワードの中に、ふかーい奥底で実は固定観念に縛られている私がいる。
せめて、貧乏臭いのはやめよう、そう決心した私は、なかなか良さげな湯葉と豆腐の専門店ののれんをくぐった。六十畳ほどの大広間に、テーブルが十六。ひとり客は私だけである。あえて、とりあえず生ビール。この緊張感、ほとんど「はじめてのおつかい」だ。テーブルの上の四角い鍋で豆腐を作りながら食べる「幸せづくし」というコースを注文する。関西弁のおにいちゃんが、次々に料理を運んで来る。あっ、向こうの親子連れの視線! やっぱり女ひとりって目立ってるみたい。つまみ湯葉ぱくっ、ねぎとろ湯葉ぱく、ぱくっ。寂しい女に見られてるのかなぁ。お豆腐の鍋がぐつぐつしてきた。となりのカップル、二人ともウーロン茶か。すみません、司牡丹ください、はい、一合でいいです。てまり寿司も湯葉揚げもおいしい。あー、このできたてのお豆腐に、生姜醤油あんか野菜あんかかけて頂くんですね。口を食べるためだけに使っていると、やたら食が進む。こっち見てるおじさん、黒い服着てお酒飲んでるからつて、別にお通夜じゃないですよ。
結局、豆腐でおなかいっぱいになってしまった私は、ご飯とお味噌汁と漬物とデザートはパスした。「えっ、デザートもええんですか」とびっくりしたおにいちゃんは、帰りがけに豆腐クッキーを持たせてくれた。心斎橋女ひとり旅おみやげ付き。
2000.8.10
34. 人はそれを有閑マダムと呼ぶ
たとえば、それは風邪で授業を早退した帰り道。いつもの風景のはずなのに、熱のせいか時間のせいか、どこかしら違う。八年間勤務した会社を辞めていわゆる充電期間を過ごしていると、同じ街を歩いていても、全く違うものが目に飛び込んでくる。あれは昨日だっけ、百年前だっけ? ワークホリッカーだった頃と確実に違う視点の私が、あのころの自分を客観的に懐かしがっている。
あれほどタクシーばかり乗っていた私が、バスを待つ昼下がり。列の先頭では、七十がらみの女性がふたりおしゃべりをしている。「永六輔の、大往生っていうの読んだ?」「あー、聞いたことある」「私ね、今読んでるんだけど、なんかとってもタメになるのよ」「へー、そう、私も読もうかしら」。おいおい、何年前のベストセラーだよと突っ込みを入れそうになって、はたと思った。別に、いいんだ。いつ読んだって。
ガリガリ広告を作っていると、世界の基準が「新発売」と「大好評」しかないような錯覚に陥る。より新しいもの、より多くの人が求めるものがすばらしくて、勢いフレッシュでメジャーなタレントが新製品の大量消費を喚起する。マイナーチェンジだろうが、パッケージしか変わっていなかろうが、とにかく新登場.「一部のユーザーには人気があったんですけどね」なんてクライアントに悲しそうに奮われたら、売れ行きが思わしくなかったから、もうお宅には広告まかせられませんよってことなのである。
だが、売れるって、そんなに大事なことなのだろうか(こんなこと書くと、マーケッターに怒られるけど)。行列のできる食べ物屋さんは、本当にそれほどおいしいのだろうか。話題のベストセラーは、確実にいい本なのだろうか。視聴率の高いドラマやバラエティーは、圧倒的に面白い番組なのだろうか。本当は、単にターゲットである若い購買層を動かしているだけだと思う。旬と数だけの世界は、マイノリティーにはちと辛い。売れている商品しか置かないコンビニエンスストアのシステムの中では、私が好む菓子パンとカップラーメンはなぜか必ず潤えていく。あっ、それって、実は私が広告屋に向いてないっていう証明だったりして?
「で、最近なにしてるの?」と、聞かれた。ゆっくり新聞を読む、語学学校に通う、床をていねいに磨く、ジャムを作る、日本舞踊のおけいこに行く、連続テレビ小説と「スタジオパーク」を続けて見る、再放送のドラマまでつい見てしまう、平日の昼間の映画館に行く、旧交を温める、積ん読だった本を端から読む、夕焼けを眺める、ネットサーフィンする、花を生ける…。「それって、いわゆる有閑マダムじゃないの」。いいでしょ、たまには、ま、長い風邪だと思って。
2000.9.21
35. いわゆる「日本語環境」
九月から、ニューヨーク市立大学の大学院に通っている。ニューヨークに住み、まわりはアメリカ人ばかり。英語のシャワーを湯水のごとく浴びて、さぞかし英語がうまくなるだろうと思いきや、予想をはるかに超えた「日本語環境」の充実ぶりにおののいている。もちろん、学校では英語だけ。授業中は、もの静かな日本人を演じながら、必死に話についていく。だが、いったん、家に戻ると……。私の住処(すみか)が日本人駐在員も多いミッドタウンにあることが大きな原因の一つたが、もし、望めば英語スイッチをオフにしたまま不自由なく暮らせてしまうだろう。
アパートを見つける前、語学学校の寮にいた間は、情報をうまく取ることができず、あらゆることに右往左往していた。テレビもないから、情報源はたまの日本への国際電話と必死で読むニューヨークタイムズだけインターネットカフェに一日本語環境」を搭載した自分のコンピューターを運んでも、メールのやりとりだけであっという間に十ドル分のリミット三十分、しかし、いざ暮らし始めると、あの頃のせっぱつまった日本語情報を求める気持ちはなんだったのだろうと思うほど、ニューヨークの「日本語環境」は充実している。
たとえば、本屋さん。紀伊國屋書店と旭屋書店が五番街の近くに立派な店舗を構えているから、雑誌の立ち読みも新刊ベストセラーのチェックも思いのまま。月刊女性誌「フィガロ」のニューヨーク特集を読んで、そうか、今ニューヨークではこの辺がおしゃれな訳ね、などと逆輸入で情報を入手できたりもする(なぜ、日本の雑誌の方が詳しい? )。さらに、本のリサイクルショップ・ブックオフ渡米前に不必要な本を処分するのにお世話になった古本チェーンだが、まさかここで再びお目にかかろうとは。マンガとCDに特に力をいれているこの店では、ニューヨークじゅうの日本人が集まっているのではないかと思うほど日本人ばかり、彼らが黙々とコミックスを立ち読みする姿を眺めていると、ここは早稲田か五反田か、すっかりココハドコワタシハダレ状態だ。
私はあえて遮断しているが、日本の新聞だって宅配してくれるし、ケーブルテレビで二十四時間日本語放送を観ることもできる。ついつい、朝の連続テレビ小説「オードリー」を観てしまい、わざわざニューヨークまで来て、関西弁字幕の段田さんの英語で英語を勉強するのか、おいおいと、自分てつっこみを入れる。
そして、極め付けばやはりインターネット、部屋のコンピューターを起動させるだけで、パレスチナ・イスラエル問題の進捗(ちょく)状況も、長野県新知事に田中康夫氏当選もミヤコ蝶々さん逝去も、同じようにあっという間に知ることができる。なんて便利な、そして、なんてとんてもない世の中になってしまったのだろう、もはや、森鴎外や夏目漱石のように異邦人としてのプレッシャーと戦いながら留学することなんて、不可能なのだ。少なくても、ニューヨークでは。スターバックスでコーヒーを飲む。マクドナルドでハンバーガーを食べる。GAPでジーパンを買う。表面的なカルチャーギャップがない日常生活の中で、もっと深い断層は落し穴のように待ち受けているに違いない。おっ、こわっ。
2000.11.2
36. 我が輩はロボットである。
サンタさん、「アイボ」持ってきてくれないかなぁ。いい年して、なにを夢見る少女のようにほざいているのだ、と自分でつっこみを入れつつも、かなり欲しい。
アイボは、小犬型のエンターテインメントロボットである。この冬は、第二世代。「自らの感情や本能を携ち、コミュニケーションによって学習、成長していく」のだそうだ。心踊る。なんて、二十一世紀っぽいんだろう。ペットでもおもちゃでもないアイボを買う(飼う?)ことは、これまで存在しなかった「関係」を考え、全く新しい文化を創ることだと思う。
ところで、アメリカのケーブルテレビにコメディチャンネルという専門局があって、PTAから抗議が殺到しそうな番組ばかりどっさり放送している。そこの「バトルポット」(BattleBotes)という視聴者参加番組、これがすごい! 参加者が制作したリモコンで動くロボットがコロシアムで戦うのだが、ほとんど「ベンハー」か「グラディエーター」状態。人間型ではなく、ちっちゃいクレーン車やブルドーザーに近い(八十センチ四方ぐらい)のだが、ハンマーとかドリルといった相手にダメージを与える武器がついていて、どれもこれもプロレスの悪役っぽい迫力だ。しかもコロシアム自体にも電動ノコなどの罠(わな)が仕掛けてあって、思わず手に汗握る。やられると痛いような錯覚に陥るし、応援しているロボットが壊れると痛々しいし。
しかし、この感情移入はいったいなんなのだ。生き物の格闘技は苦手な私だが、なぜロポットなら「いてまぇええ! と拳(こぶし)を振り上げることがてきるのだろうか? ロボットは死なないから? 血を流さないから? 痛みを感じないから? 鋼鉄のボディは、まだわかりやすい。アイボが生き物でないことが、一目瞭然(りょうぜん)なように、だが、人間と区別のつかないような柔らかい肉体を持つアンドロイドが歩き回るようになったら、私たちはその「人」とどんな関係を築くのだろうか。決して、否定しているわけではない。一人暮らしの老人のお友だちになる介護ロボット、安心して子供を任せられる家庭教師ロボット…その可能性は、SF的には無限なのだから。
「たまごっち」ブームのころ、世の大人たちは、リセットできるたまごつちは「死」の概念を子供たちに間違って伝えると問題にしていた。だが、現実は、すでにSFに追いついている。ロボット同士の戦闘を楽しむ感情、アイボをかわいいと思う気持ち、アイボで寂しさを癒(いや)そうとする欲求…もはや、これまでの常識では語れない。
アトムで産湯を使い、鉄人28号でリモコンを知り、マジンガーZとガンダムとスターウォーズで育った私たちにも、いよいよ二十一世紀がやってくる。
2000.12.14
あとがき
このエッセイの連載が東奥日報で始まった頃、私はまだコピーライターで、会社を辞めたり留学したりすることになるなんて露ほども思わず、ただバタバタと走り回っていた。と、思っていたのだが、読み返すと、辞める気満々というか、何かを変えたくてうずうずしてるのがよくわかって恥ずかしい。結局、ニューヨークに渡り、留学生活をスタートさせたあたりで、ちょうど連載も二十世紀も終わった訳だが、おそらく私の最大のターニング・ポイントと思われるこの時期に、結果的にすべてを俯瞰できるように書かせて頂けたのは本当にラッキーであった。
最初は、青森に暮らす方が興味を持ちそうな話題じゃなくっちゃなどと、愚にもつかないことで悩んだ。でも、やがて、そんなものはないのだと気づく。顔のわからないだれかが、配達されたばかりの東奥日報を手に取り、ゆっくり広げて紙面に目を落とす、その行為が想像できるようになった。それが見えたら、東京にいようがニューヨークにいようが関係ない。私は、まっすぐ思いを伝えることだけに集中すれば良かったのである。
しかしまあ、なんと、あれから丸四年たっているではないか。読者の方と確かに共有したはずの「今」は、すっかり記録になっている。古びてしまったものも、まだ面白がれるものも、もともと滑っていたものも、ちょっぴり自信作だったものも、とにかく全部並べて、次に進もう。
2005.1.8 作者