| どこか、あたたかい場所へ |
1. 朝の哲学者
coffeeという単語が、どうしても通じない。最初の音を「カ」にしてみたり、「コ」にすぼめてみたり、あれこれ試行錯誤してみるのだが、たいていの店員はチッと舌打ちして、だから外人はいやなんだよねという顔をする。そんな経験が度重なって、コーヒーを注文するときには必ず緊張するという悪循環が生じ、ますます通じない。
コーヒーぐらいでおたおたしているようだから、ぼくの性格は、およそアメリカ暮らしには向いていない。小学校の通信簿には「もう少し積極的に」と決まって書かれていたし、三十歳になった今だって、奥の方から自主性とかいうものを引っぱり出してくるのに、ものすごく時間がかかかる。
そんなぼくが、なぜニューヨークに来たのか。説明するのは、ちょっと難しい。とにかく、どこか、あたたかい場所に来たかったんだ。もちろん、冬のニューヨークが寒いのは知ってる。そう、だから、正確には、あたたかい場所を探したかったんだ。どこにあるのか、いや、そもそもそれがなんなのか、実はよくわかっていないんだけれど。
ぼくの誕生日の直前に会社が提示した早期退職者優遇制度は、ちょうど三十歳から対象だった。話に聞く、他の会社のシステムより随分若い。きっと、神様がくれたバースデープレゼントに違いない。ぼくは、素直に会社をやめて、とりあえずニューヨークの語学学校の生徒という身分を手に入れた。
さて、ごく普通に日本の義務教育のなかで育って、ごく適当に受験勉強をこなしたぼくの英語力は、おして知るべし。実力のない者は、せめて勤勉であれって、高校時代、サタンというあだ名の英語教師が言ってたっけ。まず、形から入ろう。ぼくは、毎朝ニューヨークタイムズを買い、語学学校の授業開始前の三十分間、それを読むことを自分に課した。
地下鉄のいつもの出口。いつものインド系の太っちょの新聞売り。グッモーニング。一ドル札を渡す。モーニング。新聞と二十五セントのつり銭を渡される。ハブ・ア・ナイスデー。ユー・トゥー。ただ、その繰り返し。彼の目は、ぼくを見ていない。機械的に新聞を売るだけで、ぼくと会話していない。ほとんど儀式だ。賽銭をあげて、どうぞ、英語がうまくなりますように。
タイムズを片手に、学校へ。道すがら、ドーナツやベーグルを売る屋台が四カ所。それぞれに六、七人の列ができている。コーヒーを買わなきゃ。ああ、でも、コーヒーかぁ。眠気覚ましは欲しいんだけれど、注文することを思うと、ちょっぴり憂鬱になる。「コーヒーと、チーズをはさんだシナモンベーグルを頂けますか?」を、頭の中で何度も何度も繰り返す。意を決して、銀行の角の屋台に並ぶ。コーヒーと、チーズをはさんだシナモンベーグルを頂けますか?
「今日はどうだい?」「まあまあよ。ドーナツとコーヒーを頂戴」「やあ、昨日は顔を見なかったね、いつものオレンジジュースとマフィンだね」「風邪で休んだのよ」「そうか、体が基本だからね。お大事に」決して手を休めることなく、紙コップにコーヒーを注ぎ、ミルクを入れ、ときには砂糖も入れ、ドーナツやマフィンを包むようアシスタントに指示を出し、つりを返しながら愛想よく客たちと会話を続ける店主。銀縁眼鏡をかけた彼は、その白いポロシャツ姿をやめてスーツでも着たら、有能な経営コンサルタントか弁護士といった風情だ。一人当たり、平均十五秒ぐらいだろうか。客はどんどんはけるのに、新しい客がまたすぐに列を延ばす。
「コーヒーと、チーズをはさんだシナモンベーグルを頂けますか?」「オーケー。調子はどうだい?」「いいです」「それはなにより、ハブ・ア・グッデー」奇蹟的に聞き返されず、無事にコーヒーとベーグルを手にいれた。なんて、優しい一日の始まりなんだろう。そして、ぼくは、なんて簡単なことで幸福になれるんだろう。
次の日も、ぼくはその銀縁眼鏡の店主の屋台に並んだ。「コーヒーと、チーズをはさんだシナモンベーグルを頂けますか?」「オーケー。今日はどうだい?」「まあまあです」「そう、まあまあが何より。多くを望んじゃいけない。ハブ・ア・グッデー」コーヒーとベーグルで、一ドル七十五セント、英会話ワンポイント・レッスン付き。
「ハーイ、フレンド! いつものだね?」「ええ」「いやな天気だね」「うん、本当に」「今週は週末まで、ずっとこんなだよ」「天気予報をまだ見てなくて・・・」「ま、人生、悪い天気のときもあるさ。ハブ・ア・グッデー」三日目、店主はもう、ぼくに何を注文するかさえ聞かなかった。今や、ぼくは、ニコニコと世間話をしているだけで、朝食を手に入れることができるのだ。
「今日も来たね、フレンド」「うん、毎日来るよ」「学生?」「この近所の学校に通ってる」「勤勉に暮らしてると、良いこともきちんとやってくるさ。ハブ・ア・グッデー」
「やあ、マイフレンド。気分はどうだい?」「とってもいいよ」「そりゃそうだろ。金曜日だもの。週末、コーヒーをいれなくてもいいかと思うと、私も最高の気分だよ」「あなたは、コーヒーをいれるのが好きなのかと思ってた」「好きだよ。だから、明日は自分のためにいれるんだ。ハブ・ア・グッデー」
「マイフレンド、今日の気分は?」「まあ、いつもと一緒かな?」「いつもと変わらない生活。コーヒーを入れる毎日。静かな生活、静かな幸せ」「あなたは、いつも哲学者みたいだね」「それが、みんなが私を愛する理由さ。ハブ・ア・グッデー」
たまに、別の客とスペイン語で話していたりもするから、おそらくプエルトリコかどこからかの移民だと思うのだけれど、彼は語学学校のどの教師よりも先生らしかった。彼と話すと、なんだか一日が正しく始まっているような気持ちになるのだ。タイムズをながめ、彼のいれたコーヒーをすする静かな朝。ぼくは、切れた風船の糸を丁寧にたぐって、地べたにしっかり結び直しているような、そんな感触を得るために、律儀にシナモンベーグルを食べ続けた。
三カ月が過ぎた頃、ぼくは、めずらしく自主的に、その語学学校はもういいやという結論を出した。別に英語に自信を持ったからでも、同じ朝食に飽きたからでもない。語学学校という場所は乗り換え駅のようなものだから、いつまでもそこにとどまっていても仕方ないと思ったのだ。時が満ちたのかもしれない。ちょうど、夏も終わる。
「やあ、マイフレンド。どうだい、調子は?」「あの、あなたに言わなければならない事が・・・あの、今日が最後なんです」「国に帰るのかい?」「いえ、学校をやめるから・・・」「なんだ。ニューヨークにいるんなら、どこかでまた会えるさ」「ええ、・・・きっと」「もし国に帰ったって、縁があれば、またどこかで会えるよ」「うん、たぶん」「元気で。グッド・ラック。元気でな」「ユー・トゥー」
彼もぼくも、最後までお互いの名前を知らなかった。それぞれ思った国籍さえ、当たっていたかどうか。彼にとってぼくは、毎朝彼がいれるコーヒーを飲むアジア人の友達だった。彼は、ぼくが初めてニューヨークで手にいれた確かな日常だった。きっと今日も、あそこの銀行の角の屋台で、彼はコーヒーをいれている。静かな生活、静かな幸福。ハブ・ア・グッデー。
2. チョコレートホテルの奇蹟
美術館にさえめったに行かないぼくが、そのモダンアートフェアとかいう催しに行く気になったのは、偶然見つけたアドカードの写真が妙に気になったからだ。
四階建ての古びたホテル。決して大きくないその建物の入り口には、The Chocolate Hotelと書かれていた。えっ、チョコレートホテル? 何度見直してもチョコレートホテル。経営者の名前がチョコレート氏なのか、もともと菓子屋だったのか、どっちにしろこんな変な名前のホテルは聞いたことがない。展覧会は、そこで一週間だけ開催される。よし、行ってみよう。今のぼくには、時間だけはたっぷりある。
チョコレートホテルは、ストリートも終わったダウンタウン、それもハドソン川のすぐ近くにひっそりと建っていた。なんだかずいぶんと端っこまで来たなぁ。
同じマンハッタンでも、ここは風も強い。
いざ入ってみると、ぼくの予想に反して、ホテルには絵を飾るロビーなんかなかった。病院の通用口にあるような、小さな受付があるだけ。本当にこんなところで、モダンアートフェアなんてやってるんだろうか? 受付をのぞきこむと、黒づくめの女性が本を読んでいる。「あ、あの・・・」「ああ、アートフェアにいらしたのね。入場料は8ドル。これがマップ。そこの階段で、四階まで上って、上から下りてくるといいわ」Room 428 Michel Norton, Room 423 Challei Eun Cho, Room421 Telesa MacGill・・・マップと称される紙には、ルームナンバーと名前が四十ほど並んでいるだけだ。 ま、行けばわかるだろう。おっと、そうそう。「すみませんが、このホテルの名前の由来をご存じですか?」「いいえ。ごめんなさい、私ホテルのスタッフじゃないから」「そうですか」「ごゆっくり。楽しんでね」彼女は、また本に戻る。
リスト一行目の428号室。その小さな部屋は、三百枚はあろうかと思わわれる似顔絵に占拠されていた。つけっぱなしのテレビの画面には、さまざまな人種の顔、顔、顔。向かい側の423号室では、カラフルな歯ブラシやモップが生け花のように飾られている。なるほど、アーティストたちは一つずつ部屋を与えられて、そこで自分の芸術を展開するというわけだ。
アーティスト自身が、作品について説明している部屋もあった。「これはなにで作ったかわかる?」「えーっと・・・」「洗濯石鹸の箱なんだ。ロゴが、ほら、ね。こっちは、コカコーラとペプシコーラをコラージュしてみたんだ」
天井から床まで真っ赤な布で覆って、蜘蛛の巣のように真紅のひもをはりめぐぐらした部屋。寝乱れたベッド、ふたの開いたスーツケース、砂の嵐を映すテレビなど、ホテルという素材を存分に活かした部屋(もっともそのベッドの上にはピストルが事もなげに放り出されているのだけれど)。蛍光ピンクの鰐だらけの部屋。めいめい過激に「芸術」を主張している部屋を訪ね歩きながら、ぼくはなにを面白がったらいいのか、モダンアートってなんなのか、どんどんわからなくなっていった。311号室なんか、ただランニングシャツ姿のアメリカ人がくつろいでテレビを観ているだけで、立ち止まってそのおじさんの顔を眺めていたら、バタンとドアを閉められてしまった。マップをよく見直したら、そこはアートフェアの会場になっていなくて、彼はほんとの宿泊客だったんだ。おいおい、現代美術じゃないんなら、くつろぐときはドアぐらい閉めてくれよ。
228号室に着く頃には、ぼくはすっかり「アート当たり」状態だった。「ハーイ!」褐色の肌の、くるくるっとした目の女の子。「ハーイ」ぼくも返す。「紅茶はいかが?」「ありがとう」脳味噌がじーんとしびれている。「日本人?」「うん」「今回は、日本人のアーティストも二人参加してるわ」「うん、見てきた」「お砂糖はそこにあるから」「ありがとう」ぼくは、ベッドに腰掛けて紅茶をすすりながら、七枚の油絵をかわるがわる眺めた。スイスかどこかの小さな村、そう、ハイジとか羊とか出てきそうな。深い緑色のこんもりとした森、かわいらしい家・・・なんていうか、困ったな、とにかく普通の絵だ。これもモダンアートって言えるんだろうか。「まだ途中なの」「えっ?」「私のユートピアなんだけど、どれもだめ。未完成なのよ」「きみは、スイス人?」「そう見える?」「いや、そうは見えないから」「エジプト人」「へぇ。ぼく、初めてエジプト人と話したよ」「うそ、マンハッタンでちょっとタクシーに乗れば、彼等はたいていエジプト人よ」「そっか、タクシーには乗らないからな」「ふふふ、私の名前はファトゥマ」
ファトゥマが言うには、彼女はスイスに住んだことも旅行したこともなかった。「心の中にある理想の場所を描くだけ。しっかり見えるの。きっと、間違ってエジプトに生まれたのね、ふふふ」彼女は、よく笑う。
「ところで、このホテルの名前なんだけど」「名前?」「そう、なんでチョコレートホテルっていうか、知ってる?」「ごめんなさい。知らないわ」「そっか」「でも、たしかに変な名前よね」「うん」「ホテルにしては、おいしそうな名前だわ、ふふふ」彼女が笑うと、ぼくの幸福は一ミリ増える。
「ねえ、最終日にもう一度来れる?」「大丈夫だと思うけど」「私、それまでに本当に絵を仕上げるから。名前のことも、聞いといてあげる」「オーケイ」そして、ぼくはわざと真面目な顔で付け足した。「じゃ、頼むね。ホテルの名前のこと」
日曜日は、朝からとても冷え込んでいて、出かけるのは正直ちょっと億劫な位だった。昼前にホテルに着くと、受付の女性は、またまっ黒な服を着て、相変わらず分厚い本を読んでいた。「あら、また来てくれたのね」「うん、ファトゥマと約束したから」「ああ、ファトゥマ。彼女は不思議なアーティストよね」「そう?」「ええ、とっても不思議な人。きょうは、無料よ」「ほんと?」「ファトゥマの友達だもの」
まっすぐ228号室に向かうと、ファトゥマは猛然と創作活動に励んでいる最中だった。「やあ、ファトゥマ」「ちょっと待ってね。もうすぐ始まるから」「えっ? もうすぐ終わるって言った?」「うん、もうすぐ」部屋のなにもかもに、白いシーツがかけられていた。六枚の風景画は、どれもすっかり雪景色になっていて、白いセーターにジーンズ姿の彼女は最後のキャンバスに猛吹雪を描き足しているのだ。「私、本物の雪って一度も見たことがないの」「ここでも?」「だって、先月カイロから来たばかりなんだもの」「そうなんだ」「ふふふ、雪って、きっとあったかいものなのよね」「えっ?」「それでもって、甘いの。やわらかくて。ふふふ」今日のファトゥマは、すっかりアーティストだった。さもなければ、雪んこか雪の精か。
「ホテルの名前のこと、聞いたわ」キャンバスから視線ははずすことなく、彼女は物語でも語るように説明し始めた。「ここのホテルの最初のオーナーがね、フランスに旅行したときに、ロテル・ド・ショコラっていう、とってもかわいらしいホテルに泊まってね、そこでフランス娘と恋をしたんですって・・・でも、それは悲しい恋で、彼はひとりでニューヨークに帰ってきて、自分のホテルに思い出の名前をつけたの・・・恋人はね、ホットチョコレートを・・・」彼女の話が本当でも嘘でも、ぼくにはもうどうでも良かった。ファトゥマの声は音楽みたいで、そして、窓の外では雪が降り始め、街はみるみる白い世界に変わり始めていた。それはまるで、ファトゥマがニューヨークを白い街に描き直してるみたいだった。「ファトゥマ・・・雪」「ふふふ」ファトゥマは、ちょっとだけ笑って、休むことなく絵筆を動かし続けた。
3. ノダーテ・プロジェクト
「ちょっと持っててくださる?」ひなげし柄の真っ赤なサマードレスを着たおばさんが、いきなりぼくに綱を持たせた。いや、正確に言うと、散歩途中のブルドッグをぼくに預けて、鳴っている携帯電話をバッグの奥底から取り出し、猛烈 な勢いで話し始めたのだ。「スティーブ? いったい、どこにいるのよ、ずっと 待ってたけどあなたもマイクも来ないから、先に来ちゃったわよ。えっ、今?セントラルパークよ、もちろん。えっ、セントラルパークのどこかって? そん なの・・・」ベンチに座ってゆっくりと本を読んでいたはずなのに、いつのまに か、ぼくはブルドッグとにらめっこしている。別に、ぼくが見張ってなくたって、どっかに行っちゃたりしないよね。どう見ても、走るのなんか大っ嫌いに見えるよ、おまえは。
「ええ、わかったわ。ここで待ってるから」電話を切ると、彼女はぼくの隣りにどっかと腰を降ろした。「スティーブったら、いつも時間を守らないの。ほんと困っちゃう」ぼくは、ただニコニコしながら、綱を彼女に返した。「ああ、ジュリエットをありがとう」「ジュリエットっていうんですか」「ええ、かわいい でしょ」でぶでぶのジュリエットと目があった。苦笑。「ええ、とっても」「ロ ミオはね、3年前に死んでしまったの、かわいそうに」ひなげしおばさんが大き なため息をついたので、ぼくもちょっとまじめな顔をした。
「ところで、あなた日本人よね?」「ええ」「いいところで、会ったわ。私たち、これからノダーテをするの」「ノダーテ?」「そう。サドウのノダーテ。あなた日本人なのに知らないの?」あっ、日本語か。英語のなかに妙なイントネーションで混じると、それが何語なのか見当もつかない。「ノダーテってティー・セレモニーの?」「そうよ」ああ、日本庭園とかでお茶をたてるやつだ。「ぼ く、飲み方とか、よく知らないので・・・」「あらそう? じゃ、教えてあげるわ よ」「いや、でも・・・」「いいのよ、遠慮しなくても」困った、どうしてこんなに、 彼女のペースで進んでいくんだろう。ジョギングやローラーブレードをする人々 はすいすい通り過ぎていくのに、ぼくは永遠にひなげしおばさんに捕まっている。
「こおーんなに美しい日曜日の昼下がりに、日本人のあなたがノダーテをしなくて誰がするの?」誰がするのって、こんな炎天下、セントラルパークで野点なんてやるかぁ?立ち去るタイミングがつかめずに困っていると、スティーブとマイクとおぼしき二人組がやってきてしまった。まるで、ブルースブラザース。といっても、似ているのは体型とサングラスだけで、二人ともTシャツに短パン、いたってラフな格好をしているのだけれど。「ハーイ! お待たせ」「ノダーテ日和だね」陽気に、ひなげしおばさんとぼくに挨拶する。ぼくがいることに、なんの疑問もないらしい。ハグ。握手。ハグ。握手。善意の交歓。
「やっぱりThe Sheep Meadowまで行かなくっちゃね」ひなげしおばさんは、 ジュリエットを連れて歩き出した。大荷物を抱えたスティーブとマイク、そしてラジカセを持たされたぼくも後に続く。「The Sheep Meadowって?」「ほら、広い芝生のとこ。チャーリー・シーンの映画に出てきた・・・観た?」ぼくの質問に、ちっちゃい方が答えてくれた。ああ、「ウォール街」のラストシーンだっけ。「羊がいっぱいいるのよ、ねえ」ひなげしおばさんが口をはさむ。ブルースブラザースがあははと笑う。おっきい方がスティーブ、ちっちゃい方がマイク、だっけ。よし。
「さあ、準備準備!」目的地にたどり着くと、ひなげしおばさんの掛け声で、ブルースブラザースは蛍光オレンジのビニールシートを敷き、その上に、茶碗やポットをてきぱきと並べ始めた。寝そべって読書しているカップル、ウォークマンと水着だけの格好で日光浴している女性、フリスビーを楽しむ親子・・・羊は、いない。ディレクターチェアーに綱が結ばれて、ジュリエットは物憂げに、そして、だらっと芝生に寝そべっている。スティーブが、ラジカセのスイッチをいれて、みんなに座るよう促した。小さな音で、フランク・シナトラが流れ始める。なぜか座禅を組むブルースブラザース。ちょっと迷って、ぼくは胡座をかいた。
「日本のお菓子の店もあるんだけど、とおーってもお高いから、マイクに頼んで、近所のベーカリーのケーキを買ってきてもらったの」銘々に紙の皿、プラスチックのフォーク、粘土細工みたいなカラフルなケーキ。ひなげしおばさんは、 四つの茶碗にぱっぱっぱっぱっと抹茶を入れ、ポットのお湯をごっごっごっごっと注ぎ、茶せんでしゃかしゃかしゃかしゃかとかきまわした。そして、ぼくらに一挙に配ると、自分の前にも一つ置いた。脳天までつーんと甘みが走るようなケーキを一口食べ、抹茶をいただく。たしか、三口ぐらいで飲むんだったけ?でも、カフェオレみたいになみなみと入っているから、いくらすすってもちっとも減らない。ひなげしおばさん、作法を教えるとか言ってたのに。ま、アリスのお茶会だと思えばいいのか。
「日本人はみんなティー・セレモニーができるの?」「いいえ、ぼく、今日、生まれて初めてです」「あら、もったいない、せっかく伝統があるのに」ブルースブラザースの話す英語は、彼らのごっつい印象とは対照的に、優しい女の人が 話してるみたいに聞こえる。本当かうそかわからないけれど、ニューヨークの男性の半分はゲイだっていうから、スティーブとマイクもカップルなのかもしれない。「でも、今日のは、正しいノダーテじゃないからね」ひなげしおばさんが事もなげに言い放ったので、ぼくはむしろそっちに驚いた。「本当のノダーテは、こんなでたらめじゃないのよ。これは、偽物。私が日本にいたときのお茶の先生が見たら、泣いちゃうわね、それとも笑っちゃうかしら」ブルースブラザースは、「にせノダーテ!」とかはやし立てながら、あははと笑った。彼らも知っていたのだ。「どうして?」「今日のお正客、メインゲストはスティーブとマイクでしょ。初めてノダーテをやったとき、正しいお作法が難しすぎて、彼らにとっては楽しくなかったのね。お茶も、苦すぎて飲めなかったし。でも、ノダーテの雰囲気は好きだっていうから、彼らに楽しんもらえるようアレンジすることにしたの。お客人をいかにもてなすか、それが一番大切、それが茶の湯の心だって、 私、日本で学んだのよ」
なんて、答えたらいいんだろう。どうせガイジンがでたらめやってるって傲慢にも思ったぼくが、茶道のなにを知ってたっていうんだろう。「ぼく、このノダーテ、好きです。すっごくいいと思います」ちょっと熱くなって、興奮ぎみに主張すると、ひなげしおばさんは、絵に描いたアメリカ人みたいに、人さし指をチッチッチッと動かした。「あらぁ、だめよ、あなたはちゃんと覚えなくっちゃ。日本人が日本のことをでたらめにやってちゃ、本物がなくなっちゃうでしょ」
「おかわり、ください」マイクが言った。「私も」と、スティーブ。「二杯目は、ちゃんと点てますからね」ひなげしおばさんが、ウインクした。シナトラの声が、青空に溶けていく。ぼくは、甘すぎるケーキをジュリエットの前に置いて正座し直した。ジュリエットは、面倒くさそうにクンと匂いを嗅いで、また、まどろみに戻っていった。
4. マティーニ3杯分の夢
イーストビレッジの小さなカフェ。通りに椅子を並べたその一番隅の席で、ぼくは、ボストン・アダムスを飲みながらミステリを読んでいた。ぼくの英語を読むスピードのせいで、探偵はひどくゆっくりと犯人を追いかけていたけれど、店の奥から聴こえてくるビーチボーイズも、ビールの冷たさも夜風も、いかにもほどよく「とある夏の夜」だった。
「エクスキューズ・ミー?あの、日本の方ですよね?ここ、ちょっとよろしいですか……いや、その、日本語がね、ちょっと恋しくなったもので」彼が突然ぼくの前に立ったとき、普段なら怪しいって感じるセンサーが、どういう訳か全く作動しなかった。
魔法にでもかかったみたいに、ぼくは頷いていた。それにしても、日本語が恋しいって、このおじさんはいったいなに人なんだろうか?ぎょろりとした目に薄くなりかけた頭、ジルバを踊る男女のシルエットをプリントしたアロハシャツ、アジア系かどうかさえ定かではない。もちろん、年齢も不祥。そして、そのちょっと不思議なイントネーションの日本語は、外国人が丹念に学んだもののようでもあり、長い間雨風にさらされて、ところどころ色褪せた母国語のようでもある。
「ガクセイさん、ですか?」「ええ、一応」「私、トーキョーからこっち来て……三十年になります」「三十年!ぼくなんか、まだ一年もたってないです」「いや、別に、長いと偉い訳じゃないから」どうやら日本人らしい。彼は、ウエーターに合図してドライ・マティーニを注文した。「私が来たころは……正確には一九六七年ですけど、タイムズスクエアなんて恐くて歩けませんでしたよ。いやぁ、随分変わった……」彼は、運ばれてきたマティーニにちょっと口をつけて、微笑んだ。
「あのね、『蛍の光』ってあるでしょ、卒業式のときの。あれ、なんで日本人が歌うようになったか知ってますか?」えっ、かなり、唐突な質問だ。「さあ? あれって、もともとアイルランド民謡かなんかでしたっけ?」「そう、スコットランド民謡。私ね、あの曲で、ブロードウェイミュージカル作るつもりで、アメリカに来たんですよ」たぶん、ぼくの目は彼の期待どおり丸くなったと思う。彼は、まるでその大切な記憶を取り出すみたいにオリーブをつまんで、満足そうに口に入れた。
「いや、アレってね、こっちじゃAuld Lang Syneっていって、大晦日に歌うんですよ。だから、アメリカ人もみんな知ってる訳です。日本じゃ、明治のはじめの『小学唱歌集』っていう教科書に、初めて入ったんですけどね。伊沢シュージっていう当時の偉い人がボストンに留学して、ま、子供たちの音楽教育をどうするかとかって、いろいろ勉強してた訳ですよ。で、彼と運命的な出合いをするのが、アメリカ人のメイソンって学者なんですけど、こいつが……」彼は、ウエーターにウインクして、二杯目のドライ・マティーニを促した。「なかなか変な奴でね、ボストンの街を歩いてる東洋人見つけると、お前は日本人か支那人か、ちょっとウチに歌を歌いに来いって、片っ端から声かけてたっていうんですよ。ま、使命感に燃えて、西洋音楽を教える相手、いわゆる"未開人"を探してたんでしょうね」
彼は、未開人ということばを発するときに、アメリカ人がよくやるように両方の手をチョキにして、わざわざコーテーションマークを作った。「メイソンは結局日本に二年近く滞在して、伊沢の仕事を手伝った。その『蛍』の入ったソングブックを作ったりとか、ホントいろいろ。この話をね、この、アメリカ人が日本の音楽教育の基礎を作るのにどんなに貢献したかっていうのを、こー、ぱーっと華やかでオリエンタルなミュージカルにしようと思った訳なんですよ。西洋人は、『蝶々夫人』好きですからね、これはブロードウェイでも当たる。クライマックスに『蛍の光』の大合唱。当たらない訳がない。『ミス・サイゴン』のオープンより、ずっと前の話です」
二杯目のドライ・マティーニもいつのまにか空になっていた。彼は、ちょっぴり悲しそうな顔で、三杯目を注文した。「でも、アメリカ人の共同プロデューサーが最終的にゴーサインを出さなかった。そんな日本人ばっかり出てくるような芝居、ブロードウェイじゃ当たらない、第一、キャストが集まらないって」彼が、昨日のことみたいにため息をついたので、ぼくはとにかく慰めなきゃいけないような気持ちになった。「あの……アイム・ソーリー。いや、アメリカ人って、自分に関係ない話とかでも、気の毒がるとアイム・ソーリーって言いません?ぼく、最初、なんで謝ってるんだろうって思っちゃったんですけど」「アハハッ、ありがとう……まぁ、あれはいい夢だった」そして、とても真剣な顔で続けた。「いくつか他の企画もあったけど、あんまりうまくいかなくなくって。それで、屋台で、おにぎりと味噌汁を売り始めたんです」「へぇー」「当事、マンハッタンにいた日本人は、みんな買いに来ましたよ。裏から手まわして、新潟からコシヒカリのいいのを持ち込んでね。当時、あんなにおいしいおにぎりは他になかった」「いつごろですか?」「ミュンヘンオリンピックの年だから、七二年かな?」「ああ、ぼく二歳です」「アハハッ。生まれてましたか。でも、イカンせん、あのころは、日本人の数が少なすぎた。日本食ブームなんて想像もできなかったしなぁ。結局、アメリカ人は一人も買いに来なくて、商売は一ヶ月でチョンッ」彼は、笑いながら自分の首とぼくの首の両方に、軽く空手チョップをした。
「たとえば、あなた、今、なにか日本のもので、恋しいものあります?」「恋しいもの、ですか?」「私ね、今ニューヨークにいる日本人が一番求めているのは、温泉だと思うんですよ。ま、銭湯でいいんですけど、とにかく手足をちゃあんと伸ばせる、大きくて深い風呂。昨今、たいていのものは手に入るようになったけど、銭湯だけはないでしょ、マンハッタンに。たとえば、パンナムビルの、ああ、今のメットライフビルね、最上階にプールみたいなでっかいのを、どーんと作る訳ですよ。ガラスごしに摩天楼を眺めながら、こー、一日の疲れがじわーっとお湯に溶けていく。日本人も来る。アメリカ人も来る。いっしょになって、いい湯だな、はははんって・・・」ぼくは、思わず笑ってしまった。すると、それまで実にニコニコ話していた彼が、いきなりバタンと音をたてて立ち上がった。「信じてませんね。私、真剣に話してるんですよ。私の人生をかけた夢を、あなた、信じていませんね」「いや、そんな……」「ここで、ちょっと待っててください。私がこのプロジェクトにどんなに真剣か、ちゃんと証拠を見せますから」車から何かしら取ってくると言い残して、彼は公園の方に向かってずんずん歩いて行った。ぼくは、ただただ呆気にとられていた。
Baby, do you wanna dance? まず、ビーチボーイズの歌声が戻ってきた。彼の消えた闇を、ぼくはどのぐらい見つめていたんだろうか。気持ちのいい風も、また吹いてきた。一幕芝居を演じきった男が戻ってくる気配はない。待つのをあきらめて、さっきのウエーターに勘定を頼む。Do you do you do you do you, do you wanna dance?当たり前のように、マティーニ3杯の分も一緒に伝票についている。隣のテーブルでは、ずっと携帯で話しているアメリカ人の女の子が、さも面白そうに「冗談でしょ」とか言っている。「Fuck you!」ぼくは、生まれて初めてそのことばを音声にして使って、そして、思いっきり声をたてて笑った。
5. 女神の左手
「もしもし? ああ、いたいた、よかった。明日の午前中、2時間ぐらいあいてない?」三年ぶりの連絡だった。でも、彼女の電話は、まるでその三年の空白なんてなかったみたいな、ほんと、つい先週、渋谷で一緒に映画でも観たような気軽さだった。えーっと、ここはニューヨークなんだけど、じゃ、君は今ここに来てるんだよね? 三年前、ぼく的にはけっこう悲しいふられ方をしたと思ってたんだけど、なんでまた、急に……。そんな思いは口に出さず、とにかく、ぼくは彼女が指定したバッテリーパークで会う約束をした。
当たり前のことだけれど、ニューヨークで日本人と待ち合わせをするのはすごく簡単である。フェリー乗り場はスタテン島へ向かう人々でごった返していたけれど、黒髪をボブにした小柄な彼女の姿は、ぽーんと目に飛び込んできた。「久しぶり」ぼくは言った。これ以上適切な挨拶は、他にない。「ほんとね、三年ぶりだものねぇ」実にさらりと、彼女は答えた。「ごめんなさいね、急に。忙しくなかった?」「ああ、いや、別に」「ふふふ、そうじゃないかと思った」およそ三年で、人間の細胞がすべて入れ変わるって本当だろうか。少なくても、眼鏡の奥の、ちょっと子供っぽい彼女の瞳は、全く変わっていなかった。「どうしてもね、自由の女神が見たかったの。他のは……エンパイアステイトビルとか、メトロポリタンとか、どっちでもいいんだけど……」「ちょうどよかった。ぼくも、ちゃんと見たことなかったから」「相変わらずね」と、彼女はまた笑った。
フェリーが着くと、締まっていた巨大シャッターが開いて、入り口が現れた。どやどやと人が降りてくる。カメラを下げた観光客もいるが、大半は島に住む生活者、その辺のおじちゃんやおばちゃん達だ。アメリカ人はきちんと並ばない。ぼくらを含めた次の乗客は、流れが途切れるのを取り囲むように待ち、また逆の流れとなる。「全部ただって、すごい太っ腹だよね」「一日に何往復なの?」「だいたい30分に1本で24時間だから、48往復?」「日本じゃ、考えられないわね。仮に、1ドル取ったって、すごい額じゃない?」「うん」「やね、私、日本人っぽい。なんか、けちくさい事つい考えちゃう」
船室の中の椅子には座らず、ぼくらはデッキに立って、やたらたくましい係員が錨と格闘するのを眺めた。「必ず、あるんだよね」「ん?」「腕に、タトゥー。ああいう人って」「ああ」「この前、日産命っていうの、見たよ」「えー! 意味わかんなくて、彫っちゃったのかな?」「わかんないよ、会社に命かけてるビジネスマンかもしれないし」船が出る。マンハッタンのビル群が、ゆっくりと離れていく。秋というには、随分と夏のしっぽをひきずっているような日射しが、デッキに照りつける。強い風も、不思議と心地よい。なぜ彼女が連絡をとってきたのか、ぼくはだんだん、どうでも良くなっていた。そして、ニューヨークに来て初めて、ここがニューヨークであることなんか意識せずに、ただ単に、今、ぼくがいる場所なんだと感じていた。
「はい、コーヒー」「ありがと、さすがにレディファーストの国にいると違うわね」「もともと」「そうだっけ?」マンハッタンは徐々に遠くなり、そこが小さな島に過ぎないことが明らかになる。一方、進行方向右側の女神は、徐々にその大女ぶりを露呈し始める。「自由の女神だけは絶対見たいって、この船からでよかったの?」「え?」「ちゃんとリバティ島まで行って、どうせなら、てっぺんの王冠まで登るとかさ」「やだ、そんな無粋なの……中に入ったってしょうがないじゃない、ミクロの決死圏じゃあるまいし」ちょっと例が古いよって笑いながら、ぼくは、三鷹の名画座で二人で観たSF映画特集のことを思い出した。ミクロの決死圏、ソイレント・グリーン……もう1本は、なんだったけ?「覚えてる? けんかしたの、自由の女神のことで」えっ。「トーチを掲げてるのは、右手か左手かって、ものすごい大げんか」取り繕おうにも、取り繕えない。たぐってもたぐっても、記憶のかけらも、糸屑さえも出てこなかった。「でね、じゃ、反対の手には、何を持ってるのかって話で、またもめて。だから、あなたがNYにいるって聞いて、そりゃ、一緒に自由の女神を見にゃあかんって思った訳」ぼくは、熱いコーヒーをむりやりごくごく飲んだ。どうしよう、本当になんにも覚えていない。
"Could you please take a picture?" 近くに立っていたアメリカ人観光客が、話しかけてきた。"Sure." 彼女は、自由の女神をバックに、短パン姿のそっくり親子四人連れをスナップに収めた。"Thank you very much. " "Not at all. It's my pleasure."
「なんか、随分英語うまいね」別に話題をそらすつもりもなかったのだけれど、彼女の英語は実に自然で、ぼくは、正直ちょっとびっくりしていた。「そう? 私、今アメリカ人とつきあってるから、そのせいかな?」彼女がこともなげに言い放ったことばは、さらにぼくを驚かせた。「日本に駐在している人なんだけど、今回も、彼の家族に会うために来たのね、実は」自由の女神は、ゆっくりと背中を向けて、すこしずつまた遠くなり始める。「結婚は、たぶん来年の春ぐらいかな? しばらくは、東京暮しだけどね。将来的にはアメリカにくると思う」「ニューヨークの人?」「ううん、生まれたのはフィラデルフィア」
いつのまにか、フェリーはスタテン島に着いていて、乗客はゆっくりと船を降り、そしてまた、新たにマンハッタンに向かう人々が乗船してきた。さっきの親子連れも、ぼくらと一緒で島には降りず、そのまま出航を待っていた。
哲学でもメタファーでもなく、文字通り、船は折り返す。紙コップはすでに空である。こんなとき、煙草が吸えたらいいのに。いや、アメリカじゃ意味ないか。ことばも煙も手に入れられなくて、たぶん余計もどかしい。彼女は、おもむろにバッグからガイドブックを取り出した。そして、まるで自由の女神のロングショットにナレーションでもつけるみたいに、データを読み始めた。「台座からトーチ射までの高さ46.50m、台座の高さ19.81m、頭部の長さ(王冠も)5.26m、目の幅76cm、鼻の長さ……すごい、これ、1.48m、口の幅91cm、トーチを含む右腕の長さ12.8m、独立宣言書の厚さ61cm……」自由の女神は、すぐ横にいた。「ひとつ、聞いてもいい?」「なに?」「どっちが、左手を上げてるって言ったんだっけ? ぼく? ごめん、全然覚えてないんだ」「ふふふ、握手」唐突な提案。言われるがままに右手を差し出すと、彼女は左手を差し出していた。「あなた、ついに覚えなかったわね、私が左利きだってこと。左利きの人間は、お箸持つのも、握手するのも、点火するのもみんな左手。あなたって、結局、自分にしか興味がない人なのよって、あのとき、私、泣いたじゃない……ま、私の間違いだった訳なんだけどさ、自由の女神は右利きだから」
船に乗っていると、船が動いているのではなく、陸地が水の上をすべって近づいてくるような錯覚に陥る。マンハッタン島がゆっくりぼくらの足下まで流れ着くと、自由の女神は、また華奢な淑女に戻っていた。人込みの渦の一部となって、ぼくらも下船する。「これから、どうするの?」「彼と待ち合わせ」「そう」「今日はごめんね、つきあってもらって」「いや、こっちこそ」そうだよね、自由の女神は、左手に独立宣言の本を持っていたんだ、厚さ61cmの。「握手」ぼくは、改めて左手を差し出した。「うん」彼女の左手が、ぼくの左手を握った。「……おめでとう」「どうも、ありがとう」「……でも、ぼく、もちろん知ってたよ、君が左利きだってこと」「そう?」「それが大切なことだって、あんまり気づいてなかったけど」長い、長い握手。アメリカ人なら、ここで抱き寄せるんだろうか。「あなた……男女の友情って信じる?」「このシチュエーションで信じないって答えるアホな奴、いると思う?」彼女は、にっこり微笑んで、それからゆっくりと手を放した。「じゃねっ! また電話するっ!」ぼくの女神は、井の頭線の駅にでも向かうみたいに、地下鉄の入り口に消えていった。
6. ポストマンに手裏剣を
「MASAKO? これはキミの恋人の名前?」「いいえ、残念ながらぼくの母親の名前」「ふーん、なんだか強そうな名前だ」確かに、母さんはいつもかなりパワフルだとは思うけれど、特別強そうな名前とも思えない。「そうかなあ? 日本のプリンセスだって、同じ名前なんですよ」漢字は違うけど、という言葉を飲み込んだ。これを説明するのはかなり面倒くさい。
ニューヨークに来てからの方が、ぼくは親孝行かもしれないと思う。電子メール代わりに、ときどき絵ハガキを出す。ほんの二、三行の近況報告だけれど。ベーグルに塗るトーフ・ぺーストはほとんどクリームチーズみたいだった、とか。クマモトという名前のオイスターはいたく美味、とか。チャイナタウンの香港式麺はたった3ドル75セントで生姜とネギ山盛り。風邪に効きそう、とか。ああ、なんだか食べ物の話ばかりだなぁ。とにかくそんな訳で、アパートの裏の小さな郵便局のダグは、ぼくをすっかり覚えてしまっていて、いつもなんやかやと話し掛けてくるのだ。
「今度ね、ニンジュ…を習おうかと思ってるんだ」「ニンジュ?」「日本人だから、キミもきっと得意だろ? ニンジュ? ニ・ン・ジュー・トゥー?」「忍術?」「そう、そのニンジュトゥ」ぼくの後ろにはすでに四人ほど並んでいるのに、ダグはぼくの郵便物を振り回しながら、全く急ぐ気配もなくしゃべり続ける。「前にカラテを習ってたこともあるんだけど、白いコスチュームはあんまり強そうに見えないね。やっぱり、黒いのがいいよ」「ニンジャ映画みたいな?」「その通り」「忍術は……そのぅ、ま、あまりポピュラーじゃないんですよ、今の日本では」「ほんとに? そんな訳ないだろ」アイスクリーム1ガロン位ぺろっと食べてしまいそうなダグは、きっと柔道着の方が似合うだろう。まっ、そういう問題じゃないか。
郵便局のレンガ造りの壁にぼんやりもたれているダグと会ったのは、ニューヨークからの郵便物なんか、誰も受け取りたくないような報道が続いた直後だった。「こんにちは、外にいるなんて珍しいですね」ぼくが話しかけると、ダグは笑いながらラッキーストライクを差し出した。「いえ、ぼくは……」「いい子だ。俺だって五年以上止めてたのに、こんな毎日だとつい吸いたくなる」ダグの渋い口調とは裏腹に、実にのどかな日なたぼっこ状態。恐いくらい平和な、ほのぼのと優しい日射しがぼくらを包み込む。ビルの影が浅い。
「キミは、子供の頃、なんになりたかった?」煙を吐き出して、ダグが唐突に尋ねた。「ぼくは……えーっと、そうですね、宇宙飛行士って答えてたかなぁ、たぶん」「日本にもNASAがあるのか?」「いいえ」「そうか。それでアメリカに勉強に来たのか」とりあえず、この美しい誤解をはこのままにしておこう。「ダグは?」「俺はね、ファイアーマンになりたかったんだ。消防士は男の中の男の仕事だからね」「ああ」「つまり、なんていうか、ヒーローになりたかったんだ……でも、結局、ポストマンになった」「ポストマンも大切な仕事じゃないですか」「もちろん。でも、普通、集配や窓口業務では人は死なないだろ。仕事に命をかけてる訳じゃないんだ。だから、今回みたいにいきなりそんな事態になったら、思いっきりびびる。情けないけど」「誰だってそうですよ」「女房の実家がカンザスでガソリンスタンドやってて、そっちに引っ込もうかって話があるんだ。ポストマンは危険だからって……笑っちゃうよ、ポストマンが危い仕事だなんて」煙草を揉み消したダグは、ポケットからまるで手術でもするみたいな薄青のゴム手袋を取り出した。「信じられるかい? こんなものはめなきゃ、手紙に触れないなんて……」ダグは、煙草もゴム手袋も一緒にぎゅっと胸ポケットにねじ込んだ。そして、ポンポンとぼくの肩を二つ叩くと、郵便局の中に戻っていった。ヒーロー、か。ぼくは、いつ宇宙飛行士になることをあきらめてしまったんだろう。別に、宇宙飛行士になれなかったことを後悔している訳じゃない。でも、それがただの夢に過ぎないって、いつから当たり前のように思ってたんだろう。結局、その日は「甘辛いハニーマスタードをつけるとハムサンドイッチが2倍おいしくなる」というハガキを出しそびれた。
高校生ぐらいのときに読んだSFに、地球最後の郵便配達夫の話があった。滅亡寸前の荒れ果てた地球を、生きているかどうかもわからない受取人を訪ねて、最後の手紙を届けようと旅を続けるポストマン。ディテールはすっかり忘れてしまったけれど、彼の使命感がひどくロマンチックで、その設定だけはよく覚えている。たしか、誰かハンサムな俳優を主人公にして映画化もされたはずだけれど、そのイメージはいつの間にかダグと重なって……。
人影? いや、馬だ。かつては行儀良く観光馬車でもひいていたであろう馬が、狂ったように駆け抜けて行く。静かに燃えているキャブ。ひしゃげたバス。UPTOWN ONLYのサインはずり落ち、地下鉄への階段が洞窟のようにぽっかりと暗い口を開けている。崩壊したビルの瓦礫を乗り越え乗り越え、ずんずん進んで行くダグの巨体。大きな鞄を斜めがけにして、砂ぼこりで白くなった制帽も勇ましい。「ダグ、いいんだよ。たいした手紙じゃないんだから」「郵便物は、すべて等しく重要だからね」「本当にそんな大事な内容じゃないんだって。もし受け取れなくても、母さんは全然気にしないよ」「これは俺の仕事だから」「だって、ダグ怪我してる。血が出てるよ」猛烈な後悔。ダグが命をかけて配達しようとしているのに、ぼくの書いた文章は、「13ヶ月ぶりに冷中華を食べた。辛子がなくて残念」。地球最後の手紙にふさわしい、もうちょっとましなメッセージはなかったのか。母さんに伝えたいことは、他になにもなかったのか。すぐ近くで、かろうじて立っていたビルが倒壊した。「ダグ、これは戦争なの?」「なんだかわからないけれど、非常事態なことだけは確かだね」煙と砂塵で前がよく見えない。遠くで爆音。ぼくとダグ、たった二人だけが、いつか観たアクション映画のつぎはぎの中に閉じ込められている。さらに、また一つビルが崩れ落ちた。今度はガラスの雨だ。それでもダグは進み続ける。「ダグ、もういいよ。差出人のぼくが、もういいって言ってるんだから、ほんともう十分だよ」初めてダグは立ち止まった。「ここに手紙がある。ここに宛先がある。届けるのが俺の仕事なんだ。たとえ、中に白紙が一枚入っているだけだって、俺はそれを届ける。俺はね、俺自身のためにそれを届けるんだよ、それが俺の使命だから」ダグは、ヒーローみたいににやりと笑った。
「また、MASAKOかい? 母親思いもいいけど、たまには恋人にも手紙を書いたらどう?」何ごともなかったみたいに、ぽんと日常があった。「日本に恋人がいたら、ぼくはここにいないと思う」「わかってないなぁ。どんなに近くにいても、恋人に書く手紙はいいものだよ。ポストマンの俺が保証する」「オーケー、恋人ができたらね」ぼくは神妙な顔で頷いてから、小さな箱をダグに差し出した。「小包? 宛先も差出人もないじゃないか」「ううん、これはぼくからダグへのプレゼント。日頃の感謝の意ってとこかな?」列がまだ二人なのをちらりと見て、ダグは包みを開けた。「これは?」「手裏剣。忍者が使う武器……チャイナタウンで見つけたおもちゃだけど」「Great! なんだか、保安官のバッチみたいだ」「確かに似てるかも。どっちもヒーローの持ち物だから」「なるほど、俺にぴったりだ。ありがとう……そうそう、ニンジュトゥのレッスンのことで、キミに相談したいことがあったんだ……」ダグよりも体重の多そうな、ぼくのすぐ後ろのおばさんが咳払いをした。「ま、それは、またこの次に。ほんと、ありがとう」
今日投函したハガキ。「カツカレーのある安い日本食屋を見つけた。ウチのカレーを思い出す」。やっぱり短い。
7. モミジマンジュウの夜
「友だちが出るの。義理で行くんだけど、一緒に行く?」マイにライブに誘われたとき、ぼくはてっきりジャズか何かだと思った。日本食レストランのバイトで知り合った彼女は、生後7ヶ月間と小学校、大学ととびとびで日本で過ごしたというバリバリの帰国子女。今またNYで大学院生をしているってことは、アメリカでも帰国子女か。日本食が大好きで、賄い目当てにウエイトレスのバイトをしているのだという。本当は舞ちゃんなんだけど、そのあまりにも日本人ばなれした英語の発音に、ぼくの耳には舞という名前ですら英語で響く。ま、ぼくと話すときには、まったく普通の日本語なんだけど。「金曜日の夜? いいよ、あいてるし。10時ね?」実は、ライブの中身なんてどうでも良かったのである、正直な話。
待ち合わせのモロッコレストランの前でぼんやり待っていると、予定のきっかり5分前に彼女は現れた。オレンジ色のTシャツにジーパン、長い髪をくるくるっとまとめて、なんだかもうすっかり夏である。「どーもー。今日って暑くない?」などと言いながら、小さな蝋燭の炎がゆれるだけのほの暗いレストランにどんどん入っていく。ぼく一人で来たなら、逆に入るのをためらってたかも。蛇使いでも出てきそうな音楽に包まれる。鬚のギタリストがぎょろりと睨む。テーブルとテーブルの間の狭い通路では、やたら体格のいいベリーダンサーがやたらセクシーに踊っている。マイは、全部のテーブルにエクスキューズしながらそこを通り抜ける。ぼくはただ彼女を追う。一番奥まで進み、真っ赤なドアを開けると、地下へと続く階段があった。怪しさ底なし沼状態。「前にも来た事あるんだよね?」「うん、2回来た」オーケィ、どこまでも君についていこう。扉が後ろで閉まると、アラビアンナイトは遠くなって、代わりにマイクで何かしらしゃべっている英語と、薄い笑い声が聞こえてきた。
地下。こっちの音楽はまだ始まっていないようだ。7ドルの木戸銭を彼女が払ってる間に、ぼくはカウンターでカサブランカという8ドルのビールを2本買った。客はアメリカ人ばかり10人弱。ぼくらが椅子に座っても、ライトの当たった小さなスペースで、司会者みたいな男はまだスタンドマイクに向かってしゃべり続けていた。長い紹介だなぁ。「とりあえず」「おつかれ」マイとぼくは、君の瞳になんかではなく、ごくごくあっさりと乾杯した。拍手。あれ? 次の男性もひとりで、しかも楽器も何も持っていない。歌う……感じでもない。あーっ、そっかぁ。目の前が暗くなった。ライブって、スタンダップコメディだったんだ。ぐぅわーんと頭の中で鳴っている音、マイにまで聞こえるんじゃないだろうか。これは、日本語カタコトの外人が、いきなり新宿末広亭に連れて来られたのとかわらない危機的状況である。おいおい、はっつぁん、ヘルプミー。
「オレが高校生のときに初めて……ま、トムはそういう×××な××だから……(場内爆笑)……次にトムは×××しようとして、でも、実際には、車を運転して……(くすくす笑い)……で、トムのママってのが、またすごく迫力のゴットマザーなんだけど、ママが言うには(女性の声色で)トム! オー、ノー!何度言ったらわかるのよ。あなたったら、ほんとうに×××ねぇ!……(場内爆笑)……そのママが、今度はオレに……」
チビのエディ・マーフィもどき。早口のスラング。言葉ではなく、ほとんどラップミュージックに聴こえる。断片的に入ってくる情報から、ユーモアのエッセンスを掴み取るのは至難の技だ。みんなが笑っている、肝心のポイントほどわからないのがまた情けない。唯一の救いは、ふた桁に満たない客では、大爆笑してもそれほど大きな渦を作らないことか。でも、マイは、ちゃんと、さも面白そうに声をたてている。ため息。彼女に英語力で負けている事が悲しいんじゃない。そんなのは初めからわかってる。一緒に笑えない、たったそれだけのことで、いきなり出来てしまった大きな壁が邪魔くさいんだ。せっかく、初めて二人きりの夜だっていうのに。
わかるところを少しでも見つけて、なんとか一緒に笑おうと頑張る。だが、肩がちがちで面白がれる訳もなく、あまり笑わない、いや笑えないぼくを気づかって、マイは小声で「大丈夫?」と尋ねた。「うん。なんで? 面白いよ」ぼくは嘘つきだ。しかし、それにしてもみんなよく笑う。本当に、そんなに面白いんだろうか。カサブランカを飲みつつ覚めつつ観察していると、さらに恐ろしいことに気づいた。実は、我々以外客なんて一人もいないのだ。前のコメディアンが次を紹介すると、隣の席に座ってビールを飲んでいる誰かがおもむろに立ち上がって、ライトの中に出ていく。これは、スタンダップコメディ研究会の金曜定例会か。100kgは軽くありそうな金髪ロングの山田邦子は、コロナをラッパ飲みしながら、「絶好調の私リンダの後は、お待ちかね、チェエルシーのヤング・ウッディ・アレンことジョージ・フランツ! 」と、紹介した。これまでで一番大きな拍手。ボストン眼鏡の神経質そうな青年が立ち上がった。確かに、若き日のウッディ・アレンに似ている。マイがささやいた。「彼が友だちなの」うーむ、マイはなんでうれしそうなんだろう。
チェエルシーのヤング・ウッディ・アレンことジョージ・フランツは、淡々とした口調であらゆるものを攻撃し始めた。かなりシニカルな人種差別ネタを得意とするようだ。いわゆるユダヤジョークというやつか。でも、単語がわりとわかるからじゃあ笑えるかというと、さっきまでの下ネタとはまた違った意味で難しい。「ブロードウェイの大ヒットミュージカル『プロデューサーズ』で、二人目の主役があっという間におろされちゃったけど、彼はシェイクスピアの国から来たアクターだからね。あの芝居の中にある台詞で、すでに予言されてた事なんだよ。観客がみんなユダヤ人だってことを忘れちゃいけないってね……(場内大爆笑)」全く笑えないぼくが助けをも求めるようにマイを見ると、彼女はアメリカ人っぽく肩をすくめて笑いながら言った。「田園調布に家が建つ」えっ? 今なんて言ったの? 「私ね、小学校は、日本だったの」「うん」「なんか、マンザイがすごい流行って……」「うん、覚えてる」「みんな学校で、前の晩のテレビの話とかするんだけど、何が面白いのか、全然わからなっくって、で、しょうがないから、ノート作って、ギャグ暗記したの。悲しかったよ、私、もう日本人じゃないのかもって悩んだ」「なんていうか……努力家だ」「どうも。でね、父の仕事で中学のときにロスに行ったんだけど、そしたら、今度、テレビでやってるトークショーとか、全然面白くないのよ」「日本ナイズされ過ぎた?」「そう。もうノートは作らなかったけどね」彼女は、ジョージの声をBGMにそんな話を告白した。ぼくの耳もとで、ゆっくり、とつとつと。
ジョージは、ぼくの幸福な時間に嫉妬したんだと思う。マイが全然彼のトークを聞いてなかったから。彼はいきなり言ったんだ。「じゃ、今日は最後に飛び入りの素敵なゲスト。日本から来たアイアン・シェフ、ミスター・シンジョウ!」そして、ぼくに向かって拍手した。えっ! えっ! えっ! 8人のメンバー全員が、ぼくを見つめて拍手している。マイまで、「やってみれば」とウインクした。えっ? ぼくが? 君はぼくにそれを望むの? ……。オーケィ。もう、どうにでもなれ。ぼくは立ち上がって前に進んだ。真剣な面持ちのジョージとすれ違う。なんだか、西部劇の果たし合いみたいだ。
「私は英語が話せません」まず、ぼくは英語でそう言った。くすくす笑いがもれる。「だから、日本の伝統的なジョークを日本語で紹介します。で、それを翻訳します」ちょっと心配そうなマイ。「コノ帽子ドイツンダ? オランダ」日本語の響きが面白いのか、またくすくす笑い。英語で続ける。「この帽子は誰のですか? 私のです……日本人はみんなこれで笑います」リンダがOH!と反応した。「もう一つ。トナリノ空地ニ囲イガデキタッテネ。ヘー。この会話は、私の家の隣に塀が出来たと聞きました。ああ、そうですか。という意味です……日本人はみんなこれで笑います」小さいけれど、ちゃんとした笑い声が起きた。リンダはぎゃははと笑っている。ジョージはニヤニヤしている。「これで、今日からあなたも、ジャパニーズジョークのエキスパートです。ありがとう」
まばらな拍手を浴びながら、席に戻る。のどがからからに渇いていて、少しだけ残っていたぬるいカサブランカを一気に飲み干した。「モミジマンジュウ」マイは、ぼくにそっと近付き、甘くささやいた。そして、大嘘つきのぼくのほっぺたに優しくキスした。
8. 96°Fの風が吹く
エンパイアステイト・ビルの隣のスターバックスに、結局、彼女は四十五分遅れてやってきた。夏休みを利用したほんの二週間ばかりの語学留学という話だし、かつてお世話になった上司の姪御さんだし、第一まだ十七才だというのだから、ちょっとぐらいの遅刻は大目にみてもいいだろう。そんな風に余裕でコーヒーを飲んでいたのである、三十分を過ぎるまでは。
現れた。リュックをしょった、やたらちっちゃな女の子。モー娘の誰かみたい。特にどの子っていうより、全員のパーツを足してグチャグチャにしたような感じ。そのギョロ目でくるくるとあたりを見回す。ぼくが片手をあげて合図すると、つかつか進んできて前の席にどっかと座った。「ここ、意外とわかりにくいわぁ」いきなり関西弁の先制攻撃である。「山城このみさんですよね?」「はい」「ぼく、山城部長に頼まれた……」「そんなん見たらわかるって。他に日本人いてへんもの」困った。むかつくガキだ。じゃっ。と、帰っちゃう、訳にもいかないし。「とりあえず、コーヒーでも買ってきたら?」買ってやるもんかと密かに意地になり、それでも笑みを湛えてそう言う。「ええわ。ニューヨークって物価高過ぎ」「ロンドンとか東京の方が高いらしいけどね」「ありえへん」山城部長がおごってくれた数々の……しょうがない。ぼくは立ち上がった。「コーヒーでいい?」「キャラメル・マキアート!」
「サンキュ! なんか援交みたい」おいおい、おごられていきなりそれはないだろう。「おにいさん、なにやってる人?」「学生だけど、一応」「ふうん。なんの勉強してはるの?」「英語とか」「それだけ?」「あとは、人生、かな?」十七才に鼻で笑われると、かなり傷つく。たとえ、自分がつまらない冗談を言ってしまったと自覚していても。「それって、ニューヨークじゃないと勉強でけへんの?」「まあね」他にどんな返事があるだろう。「ここ住んでて面白い?」「面白いと思うけど」「ほんまに?」「だって、このみさんだって、面白そうだから来たんじゃないの?」「それが、ようわからんようになってしまってるんよね……」彼女は、悩める小羊のような神妙な顔つきになった。一瞬だけど。
宇宙人の文脈をあやつる彼女の話を整理してみよう。えっと、まず、ブラピに会いたい。留学カッコイイ。シャワーの使い方がわからなくて、いきなり熱湯が出てむかついた。ミッション系の私立の英語科。つぶつぶいちごポッキーが食べたい。ニューヨークの人はなんか冷たい。携帯でともだちにメールしたい。語学学校クーラー効き過ぎ。クラスに日本人が4人もいてむかつく。道を聞いたら、お金を払ったら教えると言われて驚いた。毎日暑くてむかつく。寮の冷蔵庫に入れておいた牛乳がなくなった。大学で何を勉強したいのかわからない。日本の大学つまんなそう。コンビニに行きたい。地下鉄の駅に冷房がないなんて信じられない。ブラピみたいなアメリカ人が一人も歩いてない。食べ物が高くてむかつく。英語にむかつく。エスカレーター壊れてる率が高くてむかつく……。「つまり、ものすごく、むかついてるんだ」「そう、ニューヨークってめっちゃむかつく」なるほど。彼女は、果敢にも無謀にもたった二週間でニューヨーカーになろうと企て、それができずにイライラ、いや、むかついているのである。
「どうしてそんなに急ぐのかな? ゆっくり考えて、ゆっくり結論出せばいいじゃない」ぼくは、七十才の訳知り隠居風に、噛んで含めるような口調で言ってみた。「だって、もう十七だもの」もう、に反応して、まわりのアメリカ人たちの会話は、いきなり単なるBGMと化す。「来年十八。そしたら、すぐ二十歳。もう終わりや」「終わりって、なにやりたいのか十年迷ったって、まだ二十七でしょ?」「もう、二十七」これだけ疑いなく「もう」と言える彼女にとって、確かにぼくは七十才だ。説教モード、オン? いや、オフにしておこう。そもそも、ぼくにはあまり説教の持ち合わせがない。「とりあえず、出ようか」「エンパイアステイト・ビルにでも連れてってくれはるんですか?」「ちらっと考えてたけど、とりやめ」「良かった。観光ってエラいむかつくし」ぼくは、十七才のとき、いったい何を考えていたんだっけ? 二時限と三時限の間の休み時間に購買部で三色クリームパン買えるかどうかとか、バスケでレギュラーになれるかとか、期末テストやだなとか……少なくても、ひとりでマンハッタンを歩き回ろうなんて、そんな大それたこと思いつきもしなかったのは確かだ。
「暑ぅ!」たしかに、風もなくて空間がもわっと澱んでいる。「今日、96°Fだって」「それ何度? いったい」ぼくらは、ゆっくりとフィフス・アベニューを北上する。「このみさん、あれなんだかわかる?」「東京の人言うところの、マック」「何をするところでしょう?」「えっ、今、おなかすいてへんけど」「そういう意味じゃなくてさ」「ハンバーガー屋さん」「正解。じゃ、ここは?」次に、石造りの大きなビルを指す。「名前は知らんけど、デパート」「なんでわかるの?」「だって、そんなん見ればわかるやん。ショーウインドウにマネキンとかおって、ちょっとのぞいたら一階で化粧品売ってるし」「うん、その通り。ここは?」「ナショナル・パブリック・ライブラリー」「正解」「地球の歩き方に出てた。おにいさん、つまらないテストしてるうちに、焦げてまうがな」無視して右折。狛犬のように図書館を守っている二頭の石のライオンも、暑さでへばってる。96°Fの風でも吹いたら、あのたてがみも嬉しそうになびくだろうか。
「はい、ここはどこでしょう?」「グランドセントラル・ステーション」わかりきったことを、と、彼女の顔に書いてある。中央広場の時計台。いかにも人待ち顔で佇む人。メトロノース・レイルロードに乗り遅れまいと急ぐ人。携帯で怒っている人。入れ墨も鮮やかな腕にプードルを抱いている人。気ぜわしげにタイムズを読んでいる人。大きな紙袋を五つも下げている人。人、人、人。みなさまこんにちは、人種のるつぼの時間です。「じゃね。ぼくは、ここで」「えっ?」「ここに2時間いて、なにが見えるか、なにか見えたか、レポート20枚提出! しなくていいけど」「そんな……」「一日40万人通るって言ってたかな? 梅田もそのぐらい?」彼女は黙ってしまった。うーむ、別にきみにいじわるしてる訳じゃないんだよ。
「森鴎外とかさ、夏目漱石とかって偉いよね?」「いきなりなに?」「明治とかに外国に留学した人たちって、もう、なに見てもわかんなくて、たとえば、butterって単語知ってても、見てなにがバターなのかわかんない訳じゃない?」「……ま、夏目漱石、マクドで注文できへんかったかも」「でさ、でも今って、カルチャーギャップ探す方が大変で、驚きたいと思っても、難しいんだよね、けっこう。情報なんていくらでもあるから。で、せっかく、あれっと思えること? なんか日本での自分の生活と同じじゃないことに当たっちゃったときにさ、その驚きを楽しめない自分とかいたりする訳」「……それって説教?」「違うよ。ぼくの話」うん、ぼくの話なんだ。ほんとに。
映画の中で、現実で、何万組の恋人たちがここですれ違ったり、別れたりしたことだろう。彼女は恋人でもなんでもなく、今日初めて会って、ちょっぴりむかついた女の子に過ぎないけれど。「ま、この時間普通に歩いてる分には、怖いことなんてないから。じゃあね。グッドラック!」ぼくは、彼女を残して歩き出した。まるでよくある映画の別れのシーンみたいに、振り返らずに右手だけバイバイと振って。これから、どこへ行こう。ぼくはまだ、ニューヨークのことなんか何も知らない。いまだに、96°Fが摂氏何度なのかも計算できない。だから、それがどれぐらいむかつく暑さなのか、ちゃんと身体に刻まなくっちゃならないんだ。
気がつかないうちに少しずつ、でも確実に夕暮が早くなった頃、彼女の携帯からメールが来た。正直、驚いた。ぼくと別れた後、彼女はさっさとあの場を離れただろうし、きっと、超むかつく陰険おやじのことなんかメモリー消去してるだろうって決めてかかってたから。「はろはろ。おっさん元気ですか? 2時間グラセンに立ってても、2週間いても、ニューヨークのことは全然わからなかったので、来年からそこに行くことにしたよん。女優の勉強とかいいかも。劇って見たことないけど。おっさんが来年まだいたら、今度はもうちょっとましなデートしようね。いろいろサンキュ! コノミン」おにいさんからおっさんへの変化が、格上げなのか格下げなのか、ぼくには見当もつかない。でも、未来に十七才の女の子とのデートの約束があるのは、とりあえず悪い気持ちじゃない。おっさぁん、と、自分でつっこみつつ。
9. ジャック・ロビンソン氏を探して
Do you know Jack Robinson? ぼくは、この質問を何人のアメリカ人にしたことだろう。「えっ? だれ、それ?」「野球選手?」「そんな大統領いたっけ?」どこにでもありそうな名前。でも、いない。だれも知らない。「ニューヨークに住んでる人?」「いやぁ、実在の人物かどうかも、よくわからないんだけど……」ぼくは、ことばを濁す。
ジャック・ロビンソンという名前を初めて見たのは、英文法の問題集の中だった。「あなたがジャック・ロビンソンと言うことができる前に。」 なんじゃこりゃ? つまり、「あっという間に。たちまち。急に。」それって、つまり、なんじゃこりゃ、あげいん。ぼくが知らないのは、まあいい。知らないことの方が多いんだから。でも、アメリカ人がだれひとり知らないっていうのは、何なんだろう。ま、どっちにしろ、慣用句なんて大っ嫌いだけど。
その日、ぼくはブルックリンにいた。ブルックリンも、かなり奥。地下鉄5番の終点。格安のアパート・シェアの話があって、とにかくどんな街なのか歩いてみようと思ったのである。駅の階段を昇る。バーガーキング、マック、ケンタッキー、サブウェイ、ダンキン……ファーストフードの見本市。99セントショップ。携帯電話専門店。時計台のある大学の門づたいに反対側に回ると、れんが造りの中層アパートが並ぶ。角に雑貨屋が一件。フェンスで囲まれた空き地にバスケットのネットがあって、小学生ぐらいの黒人の男の子達が遊んでいる。たしか、ちょっと前に発砲事件があった辺りだけど、こんなにのどかで平和そうな場所だったんだ。マンハッタンとは違う顔のアメリカ。ここには当たり前の生活の匂いがある。別に、マンハッタンに飽きた訳じゃない。ただ、どんなに好きな人でも、一年も一緒にいればドキドキしなくなるよね、最近ちょっとそんな感じ。
しばらく歩くと、別の地下鉄の駅が現れた。小さなピザ屋のとなりに、狭い入り口のパブ。Michel's Pub、四時から六時はハッピーアワーという看板。春風というにはちょっと冷た過ぎる風が、ぼくの背中を押した。体は冷えているけれど、コーヒーよりはビールの似合う時間だ。外よりも薄暗い店内。カウンターにもテーブルにも、客はいない。奥にジュークボックスとピンボールマシンが置いてある。「開いてますか?」「もちろん」妙にきれいな金髪を無造作にまとめたバーテンの女の子が、無愛想に答えた。「何飲む?」「ブルックリンラガー」さも面白くなさそうにビールを注ぐ。髪の根元は茶色いんだ。「いくら?」「5ドル」彼女はビールグラスをぼくの前にトンと置いた。ぼくが出した5ドル札には見向きもしない。一口飲む。ああ、どんなシチュエーションでも、ビールの最初の一口は幸せを運ぶ。そっか。ぼくはチップの1ドル札を追加する。
Do you know Jack Robinson? あんまりしーんとしてるのも居心地が悪いから、もはや持ちネタのような例の質問をしてみた。「映画俳優?」とかなんとか言われて、日本の英語教育がいかにだめかという話になって、笑って終わるのだ。ところが、今回は展開が違った。彼女はこともなげに言ったのである。「ああ、ジャックならもうすぐ来るわ。いつも、だいたい今頃現れるから」絶句、するしかない。ぼくは、これからジャック・ロビンソン氏に会える訳?
ドアが開くたびに、ぼくは緊張した。 最初は、肉体労働者風のがっしりした黒人の二人連れだった。いかにも、仕事帰りに一杯ひっかけようってノリ。飲む前から、なにか冗談を言ってはガハハと笑い合っている。次にやって来たのは、四十がらみのやはり黒人の男。カウンターに座るなり、ジンをダブルで頼み、いきなり分厚い本を読み始めた。この人なの? というように目で尋ねるが、金髪のバーテン嬢はぼくの視線を無視している。うん、彼じゃない。と、思う。ちょっと間があいた。ツイードのジャケットを着た老人がゆっくり入ってきて、黙ってぼくのひとつ隣の席に座った。七十は軽く越しているだろう。白髪。白い鬚。蝶ネクタイ。痩せた小柄なサンタ・クロース。ぼくは確信を持った。ジャック・ロビンソン氏がどんな風体か全く知らないというのに。
老人がウインクを送っただけで、彼女はブルックリンラガーを持ってきた。「サンキュー。調子はどう?」「相変わらずよ」たしかに相変わらずにこりともしない彼女だが、でもさっきほど機嫌は悪そうじゃない。読書男が立ち上がった。「あの、すいません……」ぼくは、おそるおそる老人に声をかける。「名前を呼んじゃいけないよ」「えっ!」「話しかけるのは構わないけど、名前を呼んじゃいけないよ」Love me tender……。プレスリーが静かに歌い始めた。読書男はジュークボックスから席に戻ってきて、また本に目を落とす。「あなたは……」「チアーズ!」グラスを軽く上に上げて、実においしそうに一口飲んだ。こうして、ジャック・ロビンソン氏とぼくの会話が始まったのである。
「あなたのこと、いろんな人に聞いてみたんだけど、誰も知らなかった」「それは、残念」「ええ、だから、まさか会えるなんて思ってなかったです」「そう。今日は会えた。昨日は会えなかったけど」「はい」「そして、明日も会えるとは限らない」「はい」「やっぱり、どうしても、アメリカに行くのかな?」えっ、だって、ぼくは、すでにニューヨークにいる訳で……。「お前さんがアメリカに行ったとしよう。かわいそうに、お前さんは、そこで命を落とすことになる」マッチョ二人組の笑い声が響く。この老人はいったい何を言ってるんだ?
「こんなこと言っても今は信じないだろうが、ある秋ぐちの晴れた朝に、特攻隊みたいに飛行機が突っ込んで、ワールドトレードセンターはこなごなに崩れ落ちる。で、近所に居合わせたたお前さんの命もそこまでだ。そういう運命が待ち受けてるってわかってるのに、みすみす行かせる訳にはいかないと思ってね、それで今日は会いに来たんだよ」ぼくは、残っていたビールを飲み干した。「あの……それは、決まってることなんですか? その突拍子もない話も、ぼくの運命も」「ああ。決まっている」「いつですか?」「わからない。それは、誰にもわからない。でも、確実に起こる」ぼくは、グラスをもう一度口に持っていった、空だっていうのに。「私が言いたいのは、そうまでしてアメリカに行かなきゃいけない理由が、ほんとうにお前さんにあるのかってことなんだよ。このまま、日本にいればいい。このまま、同じ会社で働いていればいい。つまらないことも多いだろうけど、そんな悲惨な運命が待ち受けてる訳じゃないんだから」プレスリーをBGMに、ワールドトレードセンターが崩壊するイメージがぼくを襲う。スローモーションで、何度も何度も。「ニューヨークに行けば何かが変わるなんて、幻想だよ。ここにいてダメな奴は、どこにいったってダメだ。逃げ出してく奴はダメなんだよ」
財布に手をのばしてから、すでに勘定を済ませていることに気づいた。「ごめんなさい。あの、ここにこのまま居て、うちの会社のボロいビルがくずれないって保証はないし、ここに居たって人間いつかは死んじゃう訳だし……行ったからって、なにも変わらないかもしれないけど、行くって決めたぼくは、前のぼくとは違うでしょ。たぶん、ちょっとは」老人は鬚をひとなでした。いかにも思案してるって風に。「若いときは、みんな何が大切かわかってない」ぼくは、立ち上がった。「ご忠告、ありがとうございます、とっても感謝してます。それに、感激してます、まさかジャック・ロビ……」ぼくが言い終わらないうちに、ジャック・ロビンソン氏も、金髪のバーテンも、マッチョ二人組も、読書男も、ピンボールマシンも、壁のダーツも、壁そのものも、カウンターも、プレスリーの歌声も、ありとあらゆる物がひゅんと消えた。パブが消えただけじゃない。そこは、もうブルックリンじゃなかった。いや、ニューヨークでさえもなかった。山手線内回りの満員電車。日本人。日本人。あっ、押さないでよ。日本人。見慣れた、見飽きた通勤風景。かったるいなぁ。「次はぁ渋谷ぁ、渋谷ぁ」ニューヨークにでも行こうか。扉が開く。降りる日本人の川に呑み込まれて、ホームまで流される。英語できないしなぁ。発車ベル代わりの音楽が終わる。いや、出来ないから行くんだ。ぼくは、逆流する川の一部になって再び乗り込んだ。まるで、この電車が、ぼくをタイムズ・スクエアまで連れてってくれるみたいに、心の中で口笛なんか吹きながら。
あとがき
帰国して二年近くたつと、NYに住んでいたこと自体、嘘だったのではないかと思うことがある。だが、改めて『どこか、あたたかい場所へ』読み返してみると、マンハッタンに住み、あそこで吸っていた空気が、あのとき浴びていた陽の感覚がぱあっと戻ってくる。「ぼく」を通して見つめた風景が、「ぼく」を書かざる得なかった気持ちの一つ一つが、今、東京にいる私の細胞の中に息をし始めるのだ。三年弱の滞在中に、9.11というとんでもないものに遭遇してしまった。あの事件がなかったら、私のアメリカという国に対する気持ちも接し方も、この連作短編の展開もラストも全く変わっていただろう。この物語はフィクションであり、そして、拙い英語を駆使しながらNYを右往左往していた「ぼく」が、より混迷する世界へ、覚悟の決まらなかった私が、後戻りできない創作の道へ踏み出してしまった記録でもある。
2004.12.17 作者